国家人権博物館は23日、白色テロ景美紀念園区(台湾北部・新北市新店区)で、白色テロの犠牲となった人々を追悼する式典「威権統治時期政治受難者追思紀念会」を開催した。文化部の史哲部長(=文化相)、王時思政務次長(=副大臣)、国家人権博物館の洪世芳館長、行政院人権及転型正義処の石樸副処長、白色テロ犠牲者遺族代表の張俊明さん、台湾戒厳時期政治受難者関懐協会の陳中統理事長、五十年代白色恐怖案件平反促進会の呉建東理事長、台湾地区政治受難人互助会の周弘奇総会長、台湾二二八関懐総会の林黎彩代表、白色テロで被害を受けた人や犠牲者遺族などが出席した。
今年の式典の冒頭では、白色テロ時代に処刑された張樹旺さんの三男、張俊明さんが遺族を代表して檀上に上がり、自身の経験を語った。父親が処刑されたとき、まだ母親のお腹の中にいたという張俊明さんは、父親の身に起こったことを何も知らずに育った。張俊明さんは母親の死後、タンスに残されていた木箱を発見した。その中には、獄中の父親と交わした140通余りの手紙が入っており、それを通して、張俊明さんは父親と家族のつながりを知り、なぜ家族が長い間、父親について一切口にしてこなかったかをついに理解したという。その後、国家人権博物館や中央研究院によるオーラルヒストリー(口述歴史)の研究や白色テロ研究家の林伝凱氏らの協力もあって、父親が「緑島再叛乱案(離島の緑島にあった思想改造施設で1953年に発生した反乱事件)」で有罪となり、銃殺刑となった思想犯の一人であったことを知った。張俊明さんは「もし父親が死なずにいたならば、自分の母親と家族の境遇はどのようなものであっただろうかと思わずにいられない」と胸の内を吐露した上で、獄中で書いたという手紙の行間から、父親は理想と世界観を持った「知識青年」であることを実感したが、それにもかかわらず、白色テロ時代に濡れ衣を着せられ、早くにこの世を去ったのだと述べた。張俊明さんは、文化部が父親の張樹旺さんの生家を活用して記念館を開き、父親が遺した手紙をもとに家族の記憶の空白を埋め、社会が改めて歴史を認識できるようにして欲しいと期待を寄せた。
続いて檀上に上がった文化部の史哲部長は、現在台湾は相対的に険悪で難しい国際情勢の中にあるが、対外的に団結し、対内的に和解すると同時に、記憶と反省の伝承を止めてはならないと指摘した。そして、「先人たちの犠牲を理解することによって我々はより団結でき、これらの記憶と反省を、台湾が険悪な勢力の圧力を払いのけるための勇気に変えることができるのだ」と訴えた。
史哲部長はまた、白色テロの犠牲者として記念碑に名前が刻まれた人は、2015年の記念碑設置当初の7,000人余りから、この10年間で約1.2万人に増えたことを明らかにし、毎年清明節(=墓参りの日)前に行われるこの追悼式に参加するたびに、「まだやらなければならないことがたくさんあるということを自分に再確認させている」と述べた。
式典終了後、来賓たちは人権と自由の象徴とされるテッポウユリを手に持ち、人権記念碑を歩いてまわり、名前が刻まれた犠牲者たちのために祈りを捧げた。