2025/04/26

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文化・社会

「東洋のアンリ・マティス」と呼ばれた華人画家、常玉

2017/04/21
国立歴史博物館(台湾北部・台北市南海路)は現在、フランスで活躍した華人画家、常玉(1901~1966年)の没後50年を記念して「相思巴黎-館蔵常玉展」と名付けた記念展示を行っている。写真は作品の一つ、『四裸女』。文化部によって「重要古物(日本の重要文化財に相当。国宝に次ぐランク)」に指定されている。展示は7月2日まで。(国立歴史博物館サイトより)
国立歴史博物館(台湾北部・台北市南海路)は現在、フランスで活躍した華人画家、常玉(1901~1966年)の没後50年を記念して「相思巴黎-館蔵常玉展」と名付けた記念展示を行っている。
 
常玉は、字(あざな)を幼書といい、中国大陸・四川省順慶(現在の南充市)の裕福な家庭に生まれた。幼いころから書の名家、趙熙に師事して書道を学ぶと共に、中国の伝統的な山水画も学んだ。常玉が芸術家の道を歩き出すきかっけとなったのは、蔡元培(1868~1940年:清末民初の政治家、教育家)の提唱した「勤工倹学(勉学と仕事の両立)」計画だった。1921年、常玉はこの計画の影響を受け、仏パリへと向かった。徐悲鴻、林風眠、潘玉良らと共に、中国で最も早期にフランスへ留学した学生の一人となった。しかし、芸術家を志すほかの中国人留学生たちとは違い、常玉は正規の美術学校に入らず、自由な気風を重んじるアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエール(Académie de la Grande Chaumière)に通い、気の赴くままにスケッチの練習をした。また、やや浮世離れしたところのある常玉は、モンパルナス(パリのセーヌ川左岸14区にある地区)のカフェに入り浸る日々を送っていたという。1964年、常玉は台湾の教育部(日本における文部科学省に類似)からの招へいを受け、台湾で教壇に立ち、また国立歴史博物館で個展を開催することになっていた。しかし、あるトラブルから台湾へ来ることはかなわず、1966年に一酸化炭素中毒によってパリでその生涯を閉じたのだった。
 
常玉の作風は、幼い頃に学んだ書道と中国伝統の水墨画の影響を受けている。その筆遣いからは、書道の流れるような運筆と、「書法入画(書道の技法を取り入れた画法)」の独特な趣を見て取ることができる。常玉は、中国の最も伝統的な筆記用具、つまり毛筆を利用して、彼の眼に映る現代の裸婦を一筆、また一筆と描いたのである。
 
常玉の作品に見られる東洋的要素には、中国の「文人画(職業画家ではなく、人文的教養を身に着けた読書人が余技として描いた絵画)」が持つ俗世を離れた様子やごう慢さはなく、中国の伝統工芸に見られる色鮮やかな装飾性に満ちている。静物画を描く場合は往々にして、「泥より生じて泥に染まらず」の蓮の花や、「気品が高く」、「ひとつずつ節や歩みを重ねながら高く上がっていく」竹、あるいは世俗離れの象徴として「菊を采る東籬の下」と読まれた菊などを題材とした。その色使い、構図、題材のどれをとっても、常玉が中国の伝統芸術の影響を強く受けていることが見て取れる。また、動物をテーマにしたものとしては、現代的な技法を駆使して強い郷愁を描き出した作品『北京馬戯』などがある。こうした洋の東西の美学を融合させた表現手法は、常玉特有の芸術的魅力となっている。常玉はその存命中、欧米で何度か個展を開催したことがある。中洋折衷の画風から、「東洋のアンリ・マティス」と呼ばれた。
 
なお、常玉の油絵49点を収蔵する国立歴史博物館は、世界で最も多く常玉の作品を有する博物館である。しかし、中国大陸の四川省で生まれ、フランスのパリで没した常玉は、死ぬまで一度も台湾の地を踏むことはなかった。なぜ台湾にこれほど多くの作品が残されているのか。
 
1921年にフランスへ渡った常玉は、第二次世界大戦後も引き続きパリに残ることを決めた。しかし、根っからの芸術家でお金のことに疎い常玉は、パリの画商との関係も遠のき、しかも実家からの仕送りもあっという間に使い果たしてしまった。財産を失い、失意のどん底にあった常玉のもとに、1963年、同じ四川省出身で当時は中華民国(台湾)の教育部長(大臣)を務めていた黄季陸氏が訪ねてきた。そして常玉に、台湾北部・台北市にある国立師範大学美術系(学科)で働かないかと誘いかける。同時に、台湾の国立歴史博物館で個展を開催する話も持ちかけた。常玉はこれを快諾。新たな人生が始まるかに思えた。
 
当時、中央日報の特派員としてヨーロッパに滞在していた龔選舞氏が書いた回顧録によると、常玉はこのときまず40点の作品を台湾へ郵送した。そして台湾の国民政府が発行する中華民国パスポートも取得。台湾での個展が終わっても、余生を台湾で過ごす覚悟を固めていたという。だが常玉はこのとき、急に思い立ってエジプトへ行くことにした。ビザを取得するために、パリにあったエジプト大使館を訪ねたが、領事担当者は中華民国パスポート所持者にエジプト渡航のためのビザを発給することはできないと跳ねのけた。国際情勢に疎い常玉は、その足でフランスにあった中華人民共和国領事館を訪れ、中華人民共和国のパスポートを申請した。中華民国パスポートと中華人民共和国パスポートを交換できると思い込んでいた常玉は、中華人民共和国領事館に中華民国パスポートを「提出」。エジプトでのピラミッド見学を終えてフランスに戻ったあと、再び中華人民共和国領事館を訪れ、中華人民共和国パスポートを差し出し、中華民国パスポートと「交換」してもらおうと思ったが、その要求は当然ながら聞き入れてはもらえなかった。
 
こうして台湾行きを断念せざるを得なかった常玉は、その後、失意のうちに体調を崩してしまう。そして1966年、常玉は一酸化炭素中毒事故によりパリでその生涯を閉じた。事前に台湾に郵送されていた作品は1968年以降、国立歴史博物館が教育部の委託を受けて収蔵することとなった。国立歴史博物館はその後も4回にわたって常玉の作品の展覧会を実施。多くのコレクターが、こうした展覧会を通して、この驚くべき才能を持った画家を知ることとなった。常玉自身が台湾の地を踏むことは一度もなかったが、台湾は常玉の作品が日の目を見るための重要な舞台を与えたのである。
 
国立歴史博物館は今回、もともと収蔵していた常玉の晩年の作品49点に加え、個人のコレクターから購入したスケッチ3点の合計52点を展示している。常玉の没後50周年に当たり、文化部(日本の文部科学省に類似)に対し、教育部から寄託されたこれら貴重な文化財の修復費用について助成金を申請した。今回の展示では、こうした修復作業の過程についても紹介している。なお、展示している作品52点のうち、『四裸女』と『菊』は文化部が専門家に鑑定を依頼して審査した結果、「重要古物(日本の重要文化財に相当。国宝に次ぐランク)」に指定されているもの。
 
「相思巴黎-館蔵常玉展」の開催は3月11日から7月2日まで。入場料は一般入場券が30台湾元(約107日本円)、学生などが対象となる優待入場券が15台湾元(約53日本円)となっている。
 

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