2025/06/09

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離島医療に尽くした侯武忠医師が逝去、澎湖に悲しみ広がる

2017/12/01
台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島で、医師のいない離島に足を運んで診療を行い、地元住民に慕われた医師の侯武忠さんが今月20日、私立高雄医学大学附設中和紀念医院(台湾南部・高雄市)で亡くなった。写真は自費で購入した小型船を自ら操縦し、診療のために離島へ向かう侯武忠さん。(侯武忠さんフェイスブックより、中央社)
台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島で、医師のいない離島に足を運んで診療を行い、地元住民に慕われた医師の侯武忠さんが今月20日、私立高雄医学大学附設中和紀念医院(台湾南部・高雄市)で亡くなった。今年2月に受けた健康診断ですい臓がんと診断され、治療を受けていた。まだ55歳という若さだった。
 
侯武忠さんは、高校の数学教師だった父親の侯栄泉さんと、小学校教員だった母親の徐照満さんの間に生まれ、澎湖諸島で育った。高校卒業後は澎湖の離島医療従事者育成のための奨学金を得て私立高雄医学大学に推薦入学。また、同じ高雄市内にある阮総合医院の外科医として研修を受けた。兵役期間中は海軍の救難艦に配属された。その後、故郷である澎湖に戻り、衛生福利部澎湖医院、海軍医院(現在の三軍総医院澎湖分院)などで勤務。澎湖県衛生局の科長を務めたこともある。
 
澎湖医院に配属された当初は、医師不足を補うため、夜間も急患センターで働いた。また、法務部(日本の法務省に相当)の法医学者として行政解剖を任されることもあり、まさに24時間無休で働いた。こうした働きが認められ、40歳足らずという当時最年少で第12回「医療奉献奨(医療分野での奉仕・貢献に対する賞)」を受賞。今年は法務部から「績優法医(優れた法医学者)」として表彰されたばかりだった。
 
20年余りにわたり澎湖諸島の離島医療に尽くした侯武忠さんが最も長く勤務していたのが、澎湖本島の北部にある澎湖県白沙郷の白沙衛生所だった。侯武忠さんは、白沙衛生所が管轄する島内10の村や里(末端の行政区画)のほか、白沙郷に属する員貝嶼、鳥嶼、吉貝嶼、大倉嶼など4つの有人島にも定期的に出かけていって診療を行った。
 
侯武忠さんは当初、澎湖本島から離島へ向かうのに離島定期便を利用していた。しかし、冬になると風力8~9レベルの強風が吹く澎湖では、天候の影響を受けて離島定期便が運休することがたびたびあった。しかも、離島定期便を利用するためには、時刻表に合わせて行動する必要があり、非常に不便を感じていた。
 
身体の不調に耐えて医師を待つ離島の人々を、これ以上待たせるわけにはいかないと感じた侯武忠さんは、自費で離島へ向かう船をチャーターすることにした。そうすることで毎週決まった時間に、2つの離島で診療を行うことが可能となった。
 
しかし、これですべての問題が解決したわけではなかった。離島便をチャーターしたものの、船長の都合がつかないこともあった。「医療で最も重要なことは、患者からの信頼を得ること。その第一歩は、決まった時間に診療を行うことだ」と考えた侯武忠さん。特に「無医村」の遠くて小さな離島こそ、住民の期待に応えるため、医師が定期的に診療を行う必要があると考えた。そこで侯武忠さんは、船長から船の操縦方法を学ぶことにした。そして半年後、小型船の操縦免許を取得した。
 
免許を取得した侯武忠さんは、続いて小型船を2艘購入した。もちろんポケットマネーだった。2艘の小型船には、それぞれ両親の名前を取って「栄泉号」と「昭満号(母親の名前、照満と同じ発音)」と名付け、それぞれ白沙郷の中屯漁港と岐頭漁港に配置した。こうして侯武忠さんは、自ら小型船を操縦し、無医村の離島へ足を運んで診療を行うことになった。自らのポケットマネーで船を購入し、離島医療に尽くす医師など、これまで台湾にはいなかった。こうして20年余りの半生を離島医療に捧げた。
 
白沙郷の荘美李郷長は、侯武忠さんの貢献を称え、岐頭地公園に侯武忠さんの記念碑を設置することを決めた。また、遺族の申し出により、2艘の小型船のうち「昭満号」が白沙郷に寄付されることになった。侯武忠さんと共に離島医療のために働いた「昭満号」は、今後も岐頭漁港に係留されるという。
 
侯武忠さんの告別式は12月3日に行われる。
 

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