2025/07/20

Taiwan Today

文化・社会

忘れられた歴史、標高3,300mの湖畔に眠る無縁塚

2017/12/29
台湾南東部・台東県海瑞郷の標高3,300mの高地にある嘉明湖は、その美しく澄んだ様子から「天使の涙」と呼ばれる。いまから72年前、この周辺で連合国軍の兵士25名に加え、捜索隊26名が犠牲となった。写真はこの「三叉山事件」について伝える碑文。関山親水公園(台東県関山鎮)に設置されている。(中央社)
台湾南東部・台東県海瑞郷の標高3,300mの高地にある嘉明湖は、その美しく澄んだ様子から「天使の涙」と呼ばれている。手付かずの自然が残り、多くの野生動物が生息する。近年は登山スポットとしても人気が高まっている。しかし、この美しい湖畔にひっそりと存在する無縁塚のことを知る人はあまりいないだろう。そこには72年前の悲しい記憶が封じ込められている。
 
第二次世界大戦が終結して1カ月足らず、1945年9月10日のことだった。「リベレイター(解放者)」の愛称を持つ米軍の爆撃機を改装した輸送機が、日本軍の捕虜となっていた米兵11名、オランダ兵4名、オーストラリア兵5名を乗せ、日本の沖縄からフィリピンのマニラへ向かっていた。連合国軍の元捕虜たちはマニラ到着後、船に乗ってそれぞれ帰国することになっていた。しかし、輸送機は台湾上空を飛行中、台湾南東部・台東県に位置する中央山脈の南二段、新康山(3,331m)と三叉山(3,496m)の付近で墜落。乗組員を含め25名全員が命を落とした。元捕虜を乗せてマニラに向かっていたもう一機の輸送機も、台風のため海に墜落した。
 
悲劇はこれで終わらなかった。山中に輸送機が墜落したとの知らせを受け、降伏後も台湾に残っていた日本政府(台湾総督府)の台東庁は、憲兵、警察官、地元の男性ら8名を招集。9月18日に関山(3,668m)側から入山し、捜索活動に当たった。その9日後、さらに89名から成る捜索隊を結成。捜索活動を継続した。2つの捜索隊は9月30日、輸送機の墜落現場で合流した。しかし、ちょうどその頃、台東には大型の台風が接近していた。標高3,000mを超える高地の気温は氷点下まで下がった。この暴風雨により、一晩で26名が凍死した。最も多かったのは地元の先住民族であるアミ族12名、その他は日本人の憲兵7名、警察官2名、それに平埔族(平地先住民)、ブヌン族、プユマ族、客家(ハッカ)人、福佬(ホーロー)人という構成だった。俗にいう「三叉山事件」である。
 
その後の研究によると、1945年10月、別の捜索隊が入山し、墜落事故の犠牲となった連合国軍兵士らの遺体を集め、嘉明湖の近くに埋葬したと伝えられている。また、同年11月24日には米国から派遣された代表が台東を訪れ、犠牲者の身分を確認した。さらにある記録では、犠牲となったオランダ兵とオーストラリア兵の遺体を1947年(一説には1948年)、香港へ移して埋葬。米兵の遺体は1950年2月にミズーリ州セントルイスにあるジェファーソン・バラックス国立墓地に埋葬したとされている。
 
現在84歳という台東県関山鎮の先住民族集落に住むアミ族頭目の黄健徳さんは、当時をこう振り返る。
 
連合国軍の輸送機が墜落したとの知らせを受け、日本の警察は当時の自治組織である「保」(「保甲」と呼ばれる自治組織のこと。民家10戸で1甲、10甲で1保を形成)ごとに男性10名を招集した。黄健徳さんの父親が住む電光集落からも男性10名が動員された。こうして動員された地元住民70名と、日本の憲兵、警察官、役所の職員ら90名近くが捜索隊を結成し、山に入った。

日本名「山元光大」と名乗っていた黄健徳さんの父親は、アミ族が住む電光集落の頭目であり、捜索隊に動員された一人だった。急な招集だったため、コメ1袋、干し魚1枚、それに木の板を束にしたものを担いで山へ向かった。木の板は現場で簡易な棺桶を作るためのものだった。墜落事故で犠牲となった米兵を埋葬するために必要だと考えたのだ。
 
「しかし、父がそのまま帰らぬ人になるとは思いもよらなかった」―黄健徳さんによると、黄さんの父親が山に入ったあと、台風が直撃して多くの人が凍死した。その後、入山した別の捜索隊が山で凍死した人々の遺体を見つけた。しかし、遺体を全て回収することはできないため、左手だけを切り落とし、まとめて荼毘に付した。その後、遺骨と遺灰を持って下山し、遺族に一袋ずつ配布した。「ほかの犠牲者たちの遺灰も一緒になっていて、本当に父親の遺灰なのかどうかも分からなかった」と黄健徳さんは語る。
 
事件のあった年、黄健徳さんはまだ12歳だった。しかし、「この悲劇を後世に伝えたい」と考えるようになった黄健徳さんは、1975年になって初めて3人の弟と8歳の娘を連れて山に入り、事故現場へ向かった。42歳のときだった。
 
父親が歩いた道をたどり、当時の捜索がどれだけ困難を伴うものだったかを知った。輸送機の墜落現場は嘉明湖から10㎞ほど離れたところだった。暴風雨に見舞われたあの日、父はどこで命を落としたのだろうか。黄健徳さんの目から涙があふれた。
 
いまから25年前、行政院農業委員会林務局(日本の林野庁に相当)の職員が嘉明湖付近で作業中、湖畔近くで3体の遺体を見つけた。
 
当時作業に加わった鄧達義さんによると、職員の一人が嘉明湖の近くで、石でふさがれた洞穴を発見した。石の隙間から中をのぞくと、洞穴の中に3~4名分と思われる白骨遺体があるのが確認できた。下山後、派出所でこの話しをすると、派出所にいたブヌン族の従業員が「その遺体は第二次世界大戦直後に起きた三叉山での墜落事故と関係があるに違いない」と教えてくれた。
 
鄧達義さんらはその後、このことを台東県卑南郷の知本忠義堂(敷地内に温泉があることで知られる廟宇)の「師父(=住職のような人物)」に相談した。「師父」は、犠牲になった捜索隊の行いは後世の人々によって祭られるべきであり、遺骨を山から持ち帰り、忠義堂に迎えて供養すべきだと考えた。そこで「師父」は道士を伴い、骨壺4つを背負って山に入った。洞穴の石を取り除くと、その中には3人分の白骨遺体があった。2人は手前に、もう1人は奥にいた。遺骨の積み重なり具合から見て、あぐらをかいた姿で亡くなったと推測できた。奥の遺体のそばには日本刀、帽子のバッジ、アルミ製の弁当箱が置かれていた。体形はやや小型だった。手前の二人は身長が高く、大腿骨や腕の骨も長いことから、アミ族の体形だと判断された。
 
鄧達義さんは、奥の遺体は当時捜索隊を率いて入山した日本の警察官、城戸八十八さんか日本の憲兵のもので、手前の2体はアミ族の男性だと考えた。アミ族の2人はおそらく、日本人の手前に座り、体を張って風雨を防いだのだろう。台風の通過により、強い風が洞穴の中まで吹き込んだと思われる。嘉明湖の湖畔の気温はマイナス10度前後まで下がっていたはずだ。3人は洞穴の中に入り、石を積み上げて入り口をふさいだのだろう。「3人とも、もう下山できないと悟っていたのかもしれない」と鄧達義さんは思った。
 
道士は3人の遺骨を骨壺に入れると、その霊に対して、下山して忠義堂に安置することを伝えた。しかし、道士が道教のポエ占い「擲筊」で3人の霊に伺いを立てた結果、「下山したくない」との答えが返ってきた。現場にいた人々は口ぐちに「平地の環境は山の上よりずっといい。人々が供養してくれる」と霊に伝えた。それでも霊たちは下山を拒んだ。鄧達義さんらは仕方なく納骨した壺をもとの場所に安置したまま下山することにした。
 
また歳月は流れ、事故から72年がたった。空軍の退役軍人、劉瑞成さんは有志数名と共に、険しい山の斜面で墜落した輸送機の破片を掘り出す作業を行っている。劉瑞成さんはかつて空軍第二後勤指揮部司令を務めていたこともあり、米国製の軍用機や部品について豊富な知識を持っていた。また、登山を趣味としていた。偶然にも「三又山事件」について知った劉瑞成さんは、困難も苦とせず、これまで2度も墜落現場に足を運んでいる。台湾の人々にもっとこの歴史を知ってもらいたいと考えたからだ。連合国軍の兵士25名に加え、捜索隊26名が犠牲となったのである。「捜索隊の26名は、26の家族の大黒柱だったはず。彼らが亡くなったあと、世間はそのことをほとんど話題にしてこなかった。これでは亡くなった人たちが浮かばれない」と劉瑞成さんは話す。
 
劉瑞成さんは、登山客がこの歴史を知るきっかけになるようにと、掘り出した事故機の部品を、嘉明湖から連理山と新康山へ向かう歩道のそばに集めている。「これは台東県の歴史の一部だ。政府が事故現場周辺に記念碑やあずまやなどを設置し、後世の人々が先人をしのぶことができるようにして欲しい」と語る。
 
台東県関山鎮出身、アミ族の県議会議員である張萬生さんはこう語る。「72年前、捜索隊に駆り出された人々の多くは関山鎮の住民だった。この捜索はアミ族にとって最も悲惨で、且つ最も勇敢な行動だった。しかし、犠牲になった捜索隊26名の魂はまだ山に残ったままだ。輸送機の墜落現場に目印となるものを設置し、山に残る死者の魂を下山させ、そしてきちんとした調査を行い、歴史を記録することが大切だ」。
 
一度は犠牲者の遺骨を持って下山しようと考えた鄧達義さん。捜索隊26名の遺骨がまだ山に残ったままだと知ると「もう72年だ。彼らの任務ももう終わりだ」とつぶやいた。鄧達義さんは、この歴史的事実と、捜索に当たった英雄たちを、政府が顕彰することを願っている。彼らの物語と歴史を後世に伝え、事件の真相を明らかにしたい。そして、願わくは彼らの魂を下山させたいと考えている。
 
なお、捜索隊26名の犠牲は、1945年10月24日付け『台湾新報』でわずか250文字程度の記事で報じられたのみである。その後も、2001年に当時の台東県関山鎮の許瑞貴鎮長が中央研究院台湾史研究所籌備処(当時)の研究員であった施添福教授にフィールドワークを依頼し、関山鎮の高齢者や犠牲者遺族に対する聞き取り調査を行った結果、関山親水公園にこの事件を説明する碑文「三叉山事件碑記」が設置されるにとどまっている。
 

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