流行歌は人に言葉を学ぼうとさせる入口であるばかりでなく、時代の動きを映し出す鏡でもある。1989年。台湾のレコード界に初めて100万枚を突破したアルバムが現れた。それはサラ・チェン(陳淑樺)の『夢醒時分(夢から覚める時)』の収録された『跟你説聴你説(Talk to You and Listen to You)』だ。中国語レコードの黄金時代であり、同時に平均株価が1万ポイントを突破して台湾が「くるぶしまで金に埋まった」輝かしい時代だった。
翌年、林強は彗星のように現れて『向前走(前に向かって進もう)』を歌い、一躍「新台湾語歌曲運動」のキーパーソンとなった。38年にわたる戒厳令が解かれてからわずか3年目に、台湾の人々が新たな道を歩みだすことを暗示したかのようだった。台湾語の歌を歌うことはもはや悲しみや苦しみを歌うことではなく、ヤクザ社会や酒、タバコの匂いを象徴するものでもなくなった。逆に感情を語ることや自省、批判の流行となり、台湾語歌曲の台湾における発展に新しい位置をもたらしたのである。
台湾語歌曲と意外なヒット
林強にとって台湾語で歌うようになるまでの経路は明確だ。1987年に戒厳令が解除されると、それまで発禁だった書物を読めるようになった。学校の教科書を読むのが嫌いだった林強はスポンジが水を吸うように、林双不による『大声講出愛台湾(大きな声で台湾を愛すると言おう)』を真剣に読み終え、台湾語を積極的に使い、広めようという考えに深く影響された。そして彼の、「台湾語こそが我々の母語である」とする魂が目を覚ましたのである。
当時の林強はすでに、自分にとって人生最愛のものは音楽だと気付いていた。そして多くの若者と同じように、ライブで音楽を聴かせるレストラン、「木船民歌西餐庁」で行われるコンテストに参加し、多くの若者と同じように受賞は逃した。ただ、彼は他の出場者と異なり、ラブソングは歌わなかった。歌ったのは自作の台湾語の歌。それは全ての人に驚きの目をもって迎えられ、彼は自分だけの道を切り開いたのである。
バンドを組むなどして音楽を演奏する者はみな、スターや人気のバンドをコピーしたり、あこがれたりする段階を経験する。林強も例外ではなかった。当時彼は、イギリスのロックバンド、ピンク・フロイドに「はまっていた」。洋楽にあこがれ、ピンク・フロイドのアルバム、『ザ・ウォール(The Wall)』や『狂気(The Dark Side of the Moon)』を聴きながら林強は音楽を作るならピンク・フロイドのようになるべきだと考え、自分の流行歌手としてのキャリアのカウントダウンを始めていた。そして、「歌手をやめる前に、台湾語の歌でどこまでやれるか試そうと思った。その結果がボコボコに批判された、あの『娯楽世界』というアルバムだった」。
林強は、「自分の狙いは、標準的な中国語(北京語)の歌を凌駕することの他、さらに台湾語の歌で、自分の音楽を外国の音楽レベルにまで高めることだった。そのためイギリスまで行き、イギリスのスタジオで彼らがどのように音楽を取り扱い、制作しているのかを学んだ」と説明する。
『娯楽世界』での林強は、「前に向かって進む」ばかりでなく、「前に突進」、「前に飛ぶ」ような勢いだった。彼はイギリス人プロデューサー、John Fryer氏とこのアルバムを創り上げた。曲風はメタル、電子音楽、ダンスミュージックなどが混ざり合ったもの。ジャケットはスタジオで撮影されたハンサムなアップ写真ではなく、抽象的なイラストだった。林強は「先取り」しすぎたのである。「多くの人が返品してきた。そして、『これまでのアルバム2作品は歌いやすかったのに、どうして今回はこれほどうるさいのか。林強は外国かぶれでわめいているだけ、耳を塞ぎたくなる』と罵ったんだ」と話す。20年あまり経った今でも、彼はあの激しい批判を忘れていない。そして今になって、当時の自分は先を急ぎすぎたのであり、道を誤ったのではないことがわかった。「時不我與(時代が自分と共になかった)」。彼は静かにこの4文字を語るだけだが、彼の人生はその時から徐々にレールを外れ始めたのである。
台湾の世界的な映画監督、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)の勧めで、林強は映画の世界に足を踏み入れた。台湾語の歌は書かなくなった。その後、彼は徐々にテレビ出演もしなくなり、意識的に裏方へと転じた。人々は徐々に彼を忘れた。覚えている人も、林強は映画音楽の世界でのみ生きているのだと思った。ただ、林強は「Lim Giong」という台湾語の発音を直接英語にした自分の名前を忘れてはいない。そして、林双不の本にあった言葉、並びに自分が愛する台湾語とこの土地の文化をずっと覚えている。
近年、林強はまた、「Lim Giong」の名義で、異なるものに対してあまり寛容ではなく、理解しようとしないこの世界で活動を続けている。ただ、年齢を重ねた末の悟りや、現実的な人生を経た後での確信からか、彼は控えめなやり方に慣れ親しんでいるようだ。
林強は何本かのドキュメンタリーフィルムで台湾語のナレーターを務めた。第二次世界大戦末期に日本で軍用機を製造するため台湾から募集された少年たちを記録した『緑的海平線(邦題:緑の海平線 ~台湾少年工の物語~)』、台湾に毎年やってくる渡り鳥、クロツラヘラサギの『返家八千里:黒面琵鷺』、「台湾新文学の父」とされる頼和が若い時に徒歩で台湾北部の台北から同中部の故郷、彰化まで帰ったコースを現代の若者たちがたどる『跟著頼和去壮遊』である。また、国立故宮博物院の創設80周年には、台湾語で黄庭堅の漢詩、『花気薫人帖』を詩吟のように歌って見せた。ナショナルシアターとナショナルコンサートホールのオープン30周年には二つの建物の間にある広場で電子音楽のパーティーを開き、先住民族が天、地、先祖の霊を敬い、感謝する精神を表現した。結局のところこれらは全て、「台湾」という土地と関係がある。文化や環境と関係があるのである。
台湾文化は「三太子」だけではなく、排他的でもない
林強は十年余り前、台湾語歌曲のアーティスト、陳明章と約束した。台湾語文化と、いわゆる「本土」(台湾土着の文化や社会などを示す)の発展に二人は戦略をもって臨む。その戦略とは、1人は伝統を守り、もう1人はイノベーションに挑むこと。陳明章は伝統的な道で努力し、林強は新たな道を切り開くのである。
多くの面で台湾の社会は横並び。既存の事物に慣れてしまい、新たなものを作り出そうとしない。林強は、「だから多くの人は、伝統や『本土』は三太子(道教の神様の1人)、風俗習慣、青色と白の簡単なゴムサンダル(台湾に昔からあり、今も使われる廉価なサンダル)だと思っている。それらはみなそうだが、他にもたくさんあるんだ。陳明章はこのことを理解できる。彼は伝統の道を歩むと言う。だから自分は実験的なもの、新しいものに挑む。それをするための孤独は甘んじて受ける。好きでやっているのだから」と話している。
いわゆる「本土」意識が台頭し始めると多くの人々が「本土」の旗印を掲げて街を闊歩する。しかし林強は、「本土」は自然で、命の一部であり、特に強調する必要はないと考えている。彼は「自分は自分だ。その中で生まれてきたんだ」と話す。彼の「本土」の心には全てを受け入れる懐の深さがある。林強は「本土」とされるべき範囲を定めない。このため中国大陸の文物を収蔵する国立故宮博物院や、ナショナルシアター、ナショナルコンサートホールが彼とのコラボレーションを求めた際、喜んで引き受けた。台湾中部・彰化県渓湖鎮のファッションデザイナー、葉珈伶がイメージ映像の制作で林強に協力を求めた時も、国際的なコンテンポラリーダンス集団、クラウド・ゲイト・ダンス・シアター(雲門舞集)の未来の芸術監督、鄭宗龍がダンス作品、『十三声』の音楽を依頼したのにも応じたのである。
林強は、台湾における台湾語の発展はいつのまにか対立や二分化、さらには政治問題化することが多いと感じている。彼は、「台湾語や『本土』文化のためだといって、『中国』の全てを捨てる必要はない」と困った表情を見せる。イデオロギーを理由に、悠久の歴史を持つ文化や古典を切り離す必要はない。「中国人は父母に孝行する。台湾の人はそうしなくていいのか。どうしても切り離すのなら台湾の文化はいっそう狭いものとなる。心の狭い人がいてもいいが、我々は広い心でいたい。度量がなければならない」。林強はこう述べている。
林強はさらに、古典を台湾語で読むことを呼び掛ける。ただ、彼は『弟子規』(清朝における伝統的な教材)を読んだため、台湾南部の台南市で罵られたことがある。彼は、「中国大陸に傾倒していると言われた。自分は、『二分化すべきではなく、排斥してはならない。それは台湾語の発展にとってワナのようなものになる』と反論した」と話す。
台湾語の麗しき新世界
林強は、台湾語の普及には話す内容が必要だという。「言葉の使用は生活の中にとどまってはいけない。より多くの知識や深さが必要だ。知識分子が加わり、哲学や科学、生物多様性を台湾語で話してほしい。美術や音楽も語ってほしい。話題のない人はそれをそばで聴いていて、そうした話題を台湾語でどう話せばいいかを学ぶ。それから自分で話して友達と共有するんだ」。こうした集まりを、林強は読書会の方式で実現したいと考えている。また、台湾語のチャンネルも必要。彼は、「テレビ局やインターネットのプラットフォームはいずれも努力できる方向だ」と期待する。そして、「そうしたプラットフォームは公共のもので、国がサポートするものが望ましい。視聴率を求める、商業的なものであるべきではない」と話す。今日の台湾語が発展していく上での問題は、高度で深い知識分野での討論が全て標準的な中国語で行われていることなのである。
台湾はかつて国民党と国が一体となった教育に洗脳され、影響を受けた。しかし、その歴史が明らかになった今、林強は、それを強引にひっくり返し、排除することに同意しない。彼の立場は明確でびくともしないが、林強はその実践には中庸の道を用いる。彼は、強く愛しすぎること、求めるあまりに形さえ変わってしまうことを嫌う。そして、「自然体がいい。細かいことにこだわり、柔軟性を失うのはやめよう。イデオロギー問題を超越すべきだ。台湾の『本土』文化のためだと言って『中国』を排除すべきではない。『中国』のものはみな台湾と無関係だと思ってはならない。その代り、できるだけ台湾語を話せばいい。そうすれば民族は自信を持てるようになり、我々も楽になるのでは」と話すのである。