施岑宜さん夫婦は16年前、台北市内から新北市瑞芳区水湳洞に移り住んできた。もともとイヌとネコを2匹ずつ飼っており、子どもを産む考えもなかった。しかし、この地域で人々と触れ合う中で考え方が変わり、子どもを2人産んだ。かつては自分のことで精一杯だったのに、いつのまにか地域の活動に積極的に参加し、人々のために献身的に働くようになった。
施岑宜さんが瑞芳駅のそばにオープンさせた「新村芳書院」。足を踏み入れると、本がびっしりと並んだ本棚が目に入る。壁には「不一鼓」と名付けた、色の違う太鼓が7つ飾られている。かつて地元の人々を音楽で結びつけた太鼓だ。現在は「新村芳書院」のドアチャイムの役目を果たしている。
瑞芳区水湳洞に引っ越してきた施岑宜さんは、地元の芸術家と海辺を散歩したり、海岸で泳いだりしていた。海岸には、定置網漁業に使うブイがたくさん漂着していた。陶芸家の許居海さんは、ブイを加工し、布を貼って世界でたった一つの太鼓を作った。許居海さんは宗教的理由から動物の皮を使用しなかった。漂着ブイは大きさも形状も違うので、出る音も全く違った。ブイ(Buoy)の発音に似た「不一(中国語の発音でブーイー)」に太鼓の「鼓」を付けて、「不一鼓」と名付けた。許居海さんはこの太鼓に目を描いた。世界各地を漂流したブイが、いつか生まれ故郷に帰り、故郷の人々に台湾の音楽を届けて欲しいと考えたからだ。
施岑宜さんは地元の人々に声を掛け、「不一鼓」で音楽を楽しむことにした。騒音が近所迷惑にならないように、瑞芳駅そばにあった運送会社の倉庫を練習場に使うことにした。「列車が通る音もうるさいので、ここでならいくら練習しても騒音にならないと思った」と施岑宜さんは振り返る。
施岑宜さんはこうして、音楽仲間と水湳洞を出て、まさに漂流するブイのように、さまざまなコミュニティと交流するようになった。しかし、演出の機会が増えると共に、仲間たちの考え方に違いが生じるようになった。練習に参加できる時間も一致しなかったため、話し合いの結果、太鼓の練習はしばらく止めることになった。
私立輔仁大学(台湾北部・新北市新荘区)で景観デザインを学んだ施岑宜さん。卒業したのは、台湾でまさに「社区総体栄造(まちづくり)」運動が盛んになろうとしていた年だった。その後、国立台湾大学建築與城郷研究所(=大学院)で修士号を取得し、国立台湾芸術大学(新北市板橋区)芸術管理與文化政策研究所で博士号を取得した。この間、黄金博物館(新北市瑞芳区金瓜石)の館長を務めたこともある。まちづくりについて長く学んできた施岑宜さんが取り組んだのは、「不一鼓」の練習に使っていた運送会社の倉庫を利用して、人と人をつなげることだった。
こうして「新村芳書院」は誕生した。この名前は運送会社の商号である「村芳」から取った。村は運送会社の社長の名前の一字であり、芳は瑞芳の芳だった。「新村芳書院」は、書斎の「息書院」と民宿の「好事学田旅宿」から構成されている。学習型の旅を提案する宿だ。
床には人造大理石(テラゾー)が使われており、同じく人造大理石の階段も日本占領時代から残るものだ。高い天井を利用してロフトを作り、読書スペースを設けた。民宿のほうにも至るところに本が置かれている。
かつて金鉱山のまちとして栄えた瑞芳区も、いまは少子高齢化の波が押し寄せ、共働き夫婦の代わりに祖父母が孫の面倒を見る家庭が増えている。また、産業の衰退、環境問題など、さまざまな問題に直面している。これらはいずれも、台湾が直面する課題でもある。「新村芳書院」はこのほど、地元住民などに呼び掛けて地元の公共菜園の清掃を行った。ここはいま、高齢者たちにとって憩いの場となっている。また、かつて幼稚園として使われていた施設を整理し、高齢者が集まって食事を楽しめる空間に変えた。施岑宜さんは、「行動によって問題解決の糸口を見つけたい。すべては瑞芳を変えることから始まるのです」と語る。