台湾の大手映画会社、中央電影公司(現在の中影股份有限公司)の元総経理である明驥(Ming Chi)さん(1923-2012年)が亡くなって6年が経った。財団法人国家電影中心(TFI)は29日、明驥さんの伝記『台湾新電影推手:明驥』を出版し、台湾映画界に対する故人の功績を称えた。
明驥さんは映画業界に入るまで、「上校」という階級の軍人だった。政府の人事により、当時の中央電影公司の廠長に任命され、その後、総経理(=社長)に転じた。台湾が外交上、厳しい状況に立たされるようになり、また国内では映画の検閲制度が実施され、さらには中央電影公司の財政難という三重の圧力の中、明驥さんは後に「台湾ニューシネマ」と呼ばれる新たな潮流を担う映画人材を育て上げた。また、「中影技術人材培訓班(=中央電影公司技術人材育成講座)」を開設し、現在作家・脚本家として活躍する小野さん、映画監督の呉念真さん、滾石音楽国際公司の董事長を務める段鍾沂さん、映画監督の陶徳辰さんといった若い人材を雇用し、「台湾ニューシネマ」の誕生を促した。
明驥さんの伝記『台湾新電影推手-明驥』は、3年の歳月をかけて完成させたもの。執筆した童一寧さんと陳煒智さんの2人は、30時間以上に及ぶ聞き取り調査の音声を整理し、さらに明驥さんの娘の明愛華さん、小野さん、呉念真さん、王童さん(映画監督)、李行さん(映画監督)、李屏賓さん(撮影監督)などの関係者に改めてインタビューを行い、「台湾ニューシネマ」誕生の歴史の真相に迫った。
「台湾ニューシネマ」とは1980年代から1990年代の台湾で、若手映画監督を中心に展開された一連の運動で、従来の商業ベースの映画作りとは一線を画した作品を多く生み出そうという取り組みだ。その誕生についてはこんなエピソードがある。
中央電影公司の時代劇用撮影施設「中影文化城」(台湾北部・台北市)にある年、日本から輸入した電動恐竜が導入された。城のお堀に設置され、15分ごとに水中から姿を現しては、観光客を驚かせていた。当時、中央電影公司の総経理だった明驥さんはあるとき、企画会議の席で、誰かストーリーを作って、あの恐竜を映画に登場させることはできないかと聞いた。その場にいた人たちは誰もがうつむいたままだった。おおかた心の中では、「なんだそのへんなアイデアは」とでも考えていたのだろう。
そのときだった。アメリカで映画を学んで帰国したものの、映画を撮影する機会に恵まれずに悶々としていた陶徳辰さんが手を挙げ、「もちろんできます!」と大声で答えた。こうしてプロジェクトが本格的に始動することになった。とは言うものの、陶辰徳さんはまだ駆け出しの映画監督。中央電影公司としても大きな冒険はできない。そこで陶辰徳さんを含む4人の新人映画監督を集めて、それぞれに短編映画を撮らせることにした。これが、財政難だった中央電影公司が1982年に低予算で打ち出した、陶徳辰さん、楊徳昌(エドワード・ヤン)さん、柯一正さん、張毅さんによるオムニバス作品『光陰的故事(In our time)』だった。
「三庁映画(訳注:台湾映画のストーリーの多くは、客庁(=客間)、咖啡庁(=喫茶店)、餐庁(=レストラン)で繰り広げられることから名づけられた映画のスタイル)」が大流行していた時代、『光陰的故事』は新たな風をもたらし、会社に多くの興行収入をもたらした。この映画こそが「台湾ニューシネマ」の始まりとされ、その後数十年にわたって続いた「台湾ニューシネマ」の基礎となった。
記者会見に出席した明愛華さんは亡き父親について、「父は映画の門外漢であることを自認していた。2009年の台北映画祭と、同じ年の金馬奨(ゴールデンホース・アワード)でそれぞれ『終身成就奨(訳注:映画界の発展に功労のあった人に贈られる賞)』を受賞したことは、父にとって最もうれしかった時だったと思う」と振り返った。
明驥さんが「台湾ニューシネマ」の生みの親と言われる理由について童一寧さんは、「当時、右も左も分からなかった若い人材の力になった。こうした若い人たちがでたらめな企画書をもって彼を騙そうとしても、彼は若者を信じた。それから彼の台湾映画の発展にかける愛。これらは彼の信仰でもあった」と語った。
明驥さんは、映画監督の李行さんより年齢が上だったが、映画業界に入ったのは李行さんより遅かった。1983年に李行さんは、胡金銓さん、白景瑞さんなどの監督と一緒に『大輪廻』という作品を作った。しかし、その興行収入は、明驥さんがバックアップした新人監督である侯孝賢(ホウ・ シャオシエン)さん、萬仁(ワン・レン)さん、曽壮祥(ゾン・ジュアンシャン)さんの3人が手掛けたオムニバス映画『児子的大玩偶(邦題:坊やの人形)』を下回る結果となった。李行さんによると「台湾ニューシネマの潮流が、古い映画監督をつまみ出してしまった」。しかしそのことがきっかけとなり、李行さんと明驥さんは良き友人関係となった。李行さんは「台湾ニューシネマ」の台頭について、「古い映画監督同士は協力しようともしなかった。若手監督に負けるわけだ」と振り返った。
国家電影中心の陳斌全執行長は、「この伝記は、当時の時代背景を反映したものだ。若い人たちに、台湾映画の発展の流れについて、もっと理解を深めてもらいたい」と期待を寄せた。