台湾の最高学術研究機関、中央研究院の黄進興副院長は10日夜、中央研究院の院士である胡佛氏(1932年生まれ)が同日、国立台湾大学医学院附設医院で逝去したことを明らかにした。86歳だった。
胡佛氏は国立台湾大学法律学系(=法学部)を卒業後、米エモリー大学で政治学の修士号を取得した。中華民国政治学会政治行為委員会の主席を務め、行政院国家科学委員会(現在の科技部)から「傑出研究奨」を授与されたこともある。台湾大学政治系(=政治学科)で教えていたころ、台湾政治学の実証研究の国際的地位を確立。教え子には現在政界で活躍する与野党の政治家が多数おり、例えば馬英九前総統(野党・国民党)、呂秀蓮元副総統(与党・民進党)、台中市(台湾中部)の林佳龍市長(与党・民進党)などが胡佛氏の教えを受けている。また、各大学の法律学、政治学の学部長や教授などにも教え子が多数いる。
胡佛氏は1970年代、現代政治学における統計分析の手法を米国から台湾に持ち込んだ。これは当時米国でも最新の研究手法で、政治に実証研究を取り入れ、世論調査の結果などを深く分析することで、政治的行為の計量化を図るというものであった。こうした統計学の概念を政治学に取り入れることで、胡佛氏は世論調査の結果から台湾の政治現象を分析。台湾における計量政治学の基礎を築き上げた。この分野において胡佛氏はパイオニアであり、その後、台湾大学や国立政治大学などにおける関連研究の発展に大きな影響を与えた。
胡佛氏はまた、1979年の「美麗島事件(1979年12月に台湾南部・高雄市で起きた反体制運動弾圧事件)」発生から民進党結党までの時期、政府に対して、事実に基づき、民主主義の精神にのっとって双方の対立を解消するべきだとの主張を繰り返した。当時与党であった国民党と「党外」と呼ばれていた反体制派の交渉が決裂しそうになったとき、胡佛氏など社会的中立を訴える識者らは、双方の深刻な対立を回避するための重要な仲介役として働いた。1989年には自由派の学者である楊国枢氏(故人)、李鴻禧氏などと共に、政治評論団体「澄社(Taipei Society)」を組織。当時、学術界、社会、世論における中立的な勢力となった。また、雑誌『思與言』を創刊するなどして、識者がもっと社会に関心を持つよう呼びかけた。
陳水扁総統(当時)の政権下にあった2005年、胡佛氏は中央研究院のほかの院士6名と共に、「両岸和平論述-和平中国運動的起点」と題する共同声明を発表した。これは、両岸の平和を求めるよう主張するもので、当時台湾独立派からは厳しい批判を受けた。
与野党の対立がますます激しくなるのを感じながら、胡佛氏は「台湾の選挙では、緑(民進党派)は国家を選び、藍(国民党派)は政府を選んでいる。それにより民主主義、憲政の苦境に陥っている」と嘆いたと伝えられている。
大学在学中に胡佛氏の教えを受けた馬英九前総統は、胡佛氏の講演にもよく足を運んでおり、「胡先生は台湾の政治学界における偉大な師であった。憲法学の権威であるだけでなく、法治や両岸関係についてもずば抜けた見解を持っていた」とし、教え子を多数輩出し、学界からも尊重され、学術的成果が遠く海外でも評価され、深い影響を及ぼした故人を偲んだ。
大学時代に胡佛氏から憲法学を学んだという野党・時代力量の徐永明立法委員(=国会議員)は、胡佛氏が台湾大学政治系で教えていたころ、自身の「胡佛研究室」を学生たちが関連の学術研究を行うために開放しており、自分もこの研究室で国民大会及び立法委員選挙の選挙後調査を行ったと振り返った。徐永明立法委員によると、当時「胡佛研究室」で共に学んだ学友の多くが、現在学界や政界で活躍している。例えば台湾民意基金会の游盈隆董事長(=会長)、中央研究院の朱雲漢院士、大陸委員会の陳明通主任委員(=大臣)、台中市の林佳龍市長、野党・社会民主党の范雲召集人などは、いずれも胡佛氏を精神的な師と仰ぐ人々だという。徐永明立法委員は胡佛氏について「その一生を、その包容力、多様性、寛大さをもって、理念の違うさまざまな学生を受け入れた人」として恩師を懐かしんだ。
また、民進党立法院党団の李俊俋幹事長によると、戒厳令下の台湾で、台湾大学の胡佛氏、張忠棟氏、楊国枢氏、李鴻禧氏などの政治学者は、台湾大学を代表する四大自由主義派研究者と呼ばれ、「党外人士」と呼ばれた人々と与党との仲介に努めた。その後、統一・独立を巡る立場の違いから、胡佛氏と李鴻禧氏は疎遠になったが、当時人々はこの二人をまとめて「胡李」と呼び、その発音が「狐狸(=キツネ)」と同じであることから、台湾大学にいる2匹のキツネといえば、この二人を指す隠語になっていたという。
国民党の一党支配に対抗した自由主義派の学者、胡佛氏。その後、意見の違いから「保守派」とのレッテルを貼られたものの、胡佛氏は依然として胡佛氏であり、その一貫した立場が変わることはなかった。その姿は永遠に、「憲政主義」とは何かを学生たちに教える偉大な師であった。