武侠小説などで知られる作家の金庸さんが10月30日、香港で亡くなった。94歳だった。『倚天屠龍記』、『射雕英雄伝』、『鹿鼎記』などの15作品、36巻の小説を生み出した。「華人のいるところ、必ず金庸の武侠小説あり」と言われるほど、華人社会で絶大な人気を誇る作家だった。
本名を査良鏞といい、1924年に中国浙江省にある読書人の家庭に生まれた。弱冠15歳にして中学の同級生と協力し、中学受験のための参考書『給投考初中者』を編纂したほどの秀才だった。1946年に上海の新聞社『大公報』に入社し、海外ニュースの翻訳を担当。1952年には香港の新聞社『新晩報』に移り、副刊(文芸欄)の編集を担当した。ここで、同僚であり友人でもあった梁羽生さんとともに、副刊で武侠小説の連載を企画した。武侠小説とは武術に長け、義理や人情を重んじる人々を主人公とした小説のこと。梁羽生さんと査良鏞さんは、それぞれ武侠小説の執筆に取り掛かった。査良鏞さんは「鏞」の部首とつくりを分解して、「金庸」のペンネームを付けた。こうして金庸さんの初の長編小説『書剣恩仇録』は1955年、『新晩報』で連載が始まった。金庸さんと梁羽生さん、それに小説家の古龍さんはのちに、「中国武侠小説三剣客(=武侠小説の御三家)」と呼ばれるほどになった。
金庸さんは武侠小説を執筆しながら、メディア人としても活躍した。1959年には友人とともに、香港で新聞社『明報』を立ち上げ、20数年間にわたり社説を書き続けた。『明報』の社説「自由談」は1959年以降、中国の大飢饉と香港に押し寄せる難民問題を声高に批判した。この時代、金庸さんは香港の新聞界で「反共の英雄」と呼ばれた。金庸さんは「左手で社説を書き、右手で小説を書く」と言われるほど多忙を極めた。
『明報』にいた期間、金庸さんは7,000本ほどの社説を書いた。その批判は鋭く、中国共産党にとって金庸さんは目障りな存在となっていた。かつて金庸さんは台湾メディアの取材を受けたとき、「文化大革命が始まったころ、自分は中国共産党の暗殺リストの2番目にリストアップされていた。香港の警察は自分を守るために、偽物の自動車登録番号標(ナンバープレート)を14枚も用意してくれていた」と明らかにしたことがある。
金庸さんは昼夜を問わず、書くことに没頭した。毎晩新聞の編集が終わると、深夜になるまで編集室にこもって小説を書いた。こうして1日の連載分である1,000字を書き上げ、急ぎ組版と印刷に間に合わせる、という日々を送った。毎晩1,000字書くということは、昼間に内容を考えてしまっている金庸さんにとって決して難しいことではなかった。昼も夜も書き続けている金庸さんの姿を見て、誰もが大変そうだと言ったが、金庸さん自身は書くことが楽しく、疲れを感じることはなかったという。
金庸さんはその生涯で15作品の長編小説を執筆した。金庸さんの小説を読むだけでは満足できず、その小説を研究の対象としている人もいる。金庸小説の研究ブームは、すでに数十年も続いている。「金庸作品集」をテーマにした博士論文もあるほどだ。
金庸さんはその小説を通して、幅広い年代の読者の脳内に「武侠の大世界」を作り出してきた。例えば金庸さんの小説には華山派や嵩山派といった5つの武門派閥「五嶽剣派」が出てくるが、実際の歴史にはこうした派閥は存在しない。いずれも、金庸さんが小説を通して人々の心に植え付けたものである。また、金庸さんの小説の舞台は呉越の戦いが繰り広げられていた春秋時代から清朝の最盛期まで幅広い。中国数千年の歴史を網羅し、且つ現実と虚構が入り乱れている。金庸さんは情景や動作の描写を得意とした。中国武術の一つ、内家拳(ないかけん)の名手が敵と静かに向き合い、軽功(けいこう。中国武術において体を軽くする技)を駆使して疾走し、宙高く空を飛ぶ。金庸さんの筆によって、登場人物の一挙手一投足がリアルに描写された。
金庸さんが持つ義侠心や国文学の素養が、金庸さんが描く武侠の世界の義侠心を作り出した。彼の作品に出てくる武術の達人は、ただの人間ではなく、儒者(儒学を修めた者)であり、武術を使うのはその信念を実践するためである。金庸さんの作品は決して、「腐儒(全くの役に立たない儒者。くされ儒者)」を描いたものではない。『射鵰』三部作では契丹、女真、漢民族、大理といった民族の垣根を取り払い、正義と悪の間に絶対的な道徳的判断はなく、あるのは人間の心にある善と悪という本質であることを浮き彫りにした。これこそが金庸が描く任侠の世界であった。
1993年に『明報』を売却したとき、金庸さんは「我的四個願望(=私の4つの願い)」と題する文章を発表した。そこには、「若いときは戦争の混乱のため、中年になってからは新聞社の運営と小説の執筆で忙しく、十分に勉強できなかった。これは一生の心残りだ。自分がまだ実現できずにいる4つ目の願いは、勉強できなかったことを学び直すことだ」と書かれていた。その願いを叶えるため、金庸さんは81歳で香港を離れ、英ケンブリッジ大学の修士課程に入った。その後、博士課程に進学。博士号を取得したのは86歳のときだった。
金庸さんが学んでいたケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジ (StJohn's College)は2012年、金庸さんのために記念碑「金庸碑(Cha Stone)」を建てた。高さ5英フィートの石碑で、素材となった台湾産の砂岩は、金庸さんの妻である林楽怡さんが寄贈したものだった。石碑には金庸さんが2005年の入学時に、ケンブリッジ大学の美しい風景について綴った「花香書香繾綣学院道、槳聲歌聲宛転嘆息橋(=花や本の香りが漂うキャンパス、レガッタのオールの音や聖歌隊の声が響くため息橋)」の文字が、背面には「槳聲、書香、剣河、風光(=オールの音、本の香り、ケム河、風光)」の文字が彫られた。落款は「学生 金庸」となっている。
英ロンドンのMacLehose Press社は今年、『射鵰』三部作の英訳出版を始めた。一部4巻、合計12巻の長編小説で、その第一部である『射鵰英雄伝(Legend of the Condor Heroes)』の第1巻『英雄誕生(Hero Born)』が今年2月に出版されたばかり。アマゾン公式サイトのレビューでは4つ星の評価となっており、過半数の読者は満点である5つ星を付けている。第2巻の英訳は2019年に出版される予定だ。
台湾の遠流出版社は1986年以降、金庸さんの作品集を出し続けている。1986年に初めて『金庸作品集』を出版したとき、金庸さんの作品に関するキャッチフレーズを改めた。それは「台北からニューヨーク、香港からロンドン、東京から上海。世界各地に住む中国人は、それぞれ違う言葉を話し、違うスタイルの料理を食べ、異なる政治的立場を持つかもしれない。しかし、誰もが共通して読んでいるもの、それが金庸作品集だ」というものだった。
同社の王栄文董事長(会長)は、かつて金庸さんがサイン会のために台湾にやって来たとき、大勢のファンであふれかえった情景を覚えている。金庸さんが残した作品は、『三国演義』や『紅楼夢』といった大作のように、その時代を代表するものとしてこれからも読者の心に残り続けるだろうと考えている。
生前受けたインタビューで金庸さんは、「私の死後100年、200年経っても、私の小説を読んでくれる人がいるならば、私はそれでとても満足だ」と語っている。また、『天龍八部』ではこう書いたこともある。「人生在世、去若朝露。魂帰来兮、哀我何悲(=人生は朝露のようにはかない。魂が亡くなったとしても、何を悲しむことがあろうか)」。このほど、浮き世を去って行った金庸さん。金庸さんにとってその人生は、仏教が説くところの「一夢如是(一夜の夢のごとし)」だったのだろうか。