政府が出資し、蔡英文総統が会長を務める社団法人の中華文化総会は15日、1つの道を究めた人物を取り上げて紹介する短編動画シリーズ「匠人魂」の最新作『画光影的人』を発表した。最新作では、まもなく中国語映画のアカデミー賞とされる「金馬奨(ゴールデンホース・アワード)」の授賞式が行われることに合わせ、長年台湾で映画の宣伝に貢献し、いまでは数少ない存在となっている手描き映画看板絵師、謝森山さんを取り上げた。
謝森山さんは1946年、台湾中部・台中で生まれた。その後、家族と共に台湾北部・桃園に引っ越した。家計を助けるため、幼いころから何か一芸を身に着けたいと考えていた。幼いころ、「桃園大廟」と呼ばれる桃園景福宮のあたりを通ることが多かった謝森山さん。当時、この周辺は映画館が林立しており、映画街と呼ばれた台湾北部・台北市の西門町にならって「小西門町」と呼ばれていた。映画館に掲げられた映画看板を見ながら、謝森山さんは「この看板が、自分が描いたものだったらどんなにいいだろう」と考えていたという。
15歳になった謝森山さんは東方広告社の絵師に弟子入りした。17歳で一人前と認められ、兵役につき20歳で退役すると絵師として独立。それから60年近く、映画看板絵師の仕事を続けてきた。
東方広告社で絵師に弟子入りしたころは、住むところも食事も提供されず、給料も支払われなかった。しかも、絵師が何かを教えてくれるわけでもなく、謝森山さんは見よう見まねで仕事を覚え、作業を分担した。通常なら3年4か月で一人前と認められる世界だが、謝森山さんは昼夜を問わず絵の技巧を学び、色の調和などを徐々に身に着け、わずか2年後、17歳のときには一人前と認められ、自分で構成を考え、看板を描けるようになった。
ほかの絵師がどのような映画看板を描いているかを学ぶため、謝森山さんは兄弟子と二人で自転車に乗り、桃園から台北市の西門町まで行ったことがある。真夜中に懐中電灯の明かりを頼りに、映画看板を観察した。また、短期間だったが西門町で映画看板制作の異なる表現スタイルを学んだこともあった。より繊細なタッチで、人物の立体感や映画のシーンを描き出すためだった。謝森山さんはその後、兵役につき、20歳で退役すると現在の桃園市中壢区で独立した。
1960~1980年代、台湾の映画館や映画界は全盛期を迎えた。謝森山さんは同時に7軒の映画館と協力し、不眠不休で仕事に没頭した。映画館の映画看板だけでなく、巨大ポスターの制作も手掛けた。1人の出演者の顔を描くだけで、キャンバス10枚を組み合わせることもあった。どれも色合いが一致しており、同時に光の濃淡やグラデーション、立体感なども考慮しなければならなかった。また、俳優の表情はより生き生きと描く必要があった。
1986年以降、コンピュータによる画像処理技術が進歩し、手描きの映画看板に取って代わるようになった。現在では、謝森山さんなど少数の絵師が手描きにこだわり続け、文字通りその「手」で伝統文化を守り続けている。
現在、謝森山さんが手掛けた映画看板が見られるのは桃園にある中源戯院(=映画館)のみだ。謝森山さんは「映画看板を描き続け、あっという間に60年近くが過ぎた。当時の仲間たちが次々と去っていき、自分だけが残るとは考えたこともなかった。しかし、これが私の趣味だ。体力が続く限り、続けられる限り、描くことを続けたい。そして、この技術を後世に伝えていきたい」と語っている。