2025/07/17

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文化・社会

水墨画風アニメが嘉義城隍廟の歴史を紹介、当時の諸羅県は台北・基隆も管轄

2019/01/22
台湾中南部の嘉義市にある道教の廟、嘉義城隍廟が同廟の文化を伝える水墨画風アニメーションが話題に。それによれば、嘉義の行政はかつて台湾の北部まで及んでいたという。写真は同水墨画風アニメーションの一部。(嘉義城隍廟提供、中央社)
長い歴史を持つ道教の廟、嘉義城隍廟(台湾中南部・嘉義市)がこのところ、同廟の文化を紹介する水墨画風アニメーションで注目を集めている。嘉義城隍廟の葛永楽総幹事によれば、このアニメーションは嘉義城隍廟の門の扉に貼られた、「門神」の絵の修復師である李志上さんが若者に嘉義城隍廟の文化を理解させようと考え、国立台南芸術大学(台湾南部・台南市)の大学院で動画を学んでいる呂孟儒さんと協力して制作した『義邑藝意』。
 
同アニメは、清の時代の康熙54年(1715年)に諸羅県(現在の嘉義県)の県令(県知事)、周鍾瑄が自ら出資して城隍廟を建てたところから始まり、文化財や風俗習慣の角度から展開する。また、清への反乱である「林爽文事件」では諸羅県民が政府軍に協力して町を守り、乾隆皇帝より、「義挙を称える」意味が込められた「嘉義」という地名を与えられた歴史も紹介している。
 
第1話の「町があるなら城隍廟がなければならない」では、諸羅県の範囲が台湾北部の台北や基隆まで及んでいたと紹介しており、これには疑いの声もあったという。しかし、アニメーションの制作チームは歴史を調べ、康熙23年(1684年)当時の台湾には一府(台湾府)と三県(台湾県・諸羅県・鳳山県)が設けられていたことを確認。翌年、初代台湾知府(府知事)の蒋毓英と諸羅県の知県(県知事)だった季麒光、鳳山県の知県だった楊芳聲が共同で編纂した「台湾府志」に明確に記されているという。
 
康熙33年(1694年)に「福建分巡台湾廈門道」(清朝における当時の台湾の首長)の高拱乾が増補した「台湾府志」には、「諸羅県は台湾府(現在の台南市)」の北150里を治める。東は大亀佛山までの21里。西は大海の30里。東西の幅は51里。南は新港渓と台湾県の境界までの140里。北は鶏籠城(現在の基隆市)までの2,175里。南北の幅は2,315里に及ぶ」と書かれている。このため、当時の諸羅県は確かに淡水(台湾北部・新北市)や基隆市まで管轄していたと考えられる。
 
このアニメーションではまた、嘉義城隍廟に掛けられている「至誠前知」(真心で未来を予知する)と書かれた額の由来も伝えている。台湾では1862年に「戴潮春事件」が起きた。戴潮春の軍勢は諸羅の町を3度にわたって取り囲んで攻撃し、住民は恐れおののいた。当時の知県の白鸞卿が城隍廟にお伺いを立てた結果は、「損害はあるが災いには至らず」。これで人々の心は落ち着き、暴動が平定されると皇帝が「至誠前知」という額を授け、嘉義城隍を侯爵級の「綏靖侯」としたのだという。
 
 

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