中華系の米建築家で、「建築界のノーベル賞」とされるプリツカー賞など数々の栄誉に輝いた貝聿銘(Ieoh Ming Pei)氏が16日(米東部時間)に102歳で死去した。貝聿銘氏は人々の記憶に残る代表的な作品を数多く残している。
貝聿銘氏は1917年4月26日に中国大陸の広州で生まれた。貝家は蘇州の裕福な家柄。父親の貝祖貽は中華民国の中央銀行総裁で、中国銀行の創設者の1人だった。実母は清朝における最高学府の責任者の子孫だったが貝聿銘氏が13歳の時にがんで死去、継母の蒋士雲女史は中華民国駐外使節のメンバーだった蒋履福の娘だった。
貝聿銘氏は18歳で渡米して建築学を学び、マサチューセッツ工科大学で学士、その後ハーバード大学で建築学修士号を取得した。貝氏の当初からの志は「光線に設計させて」建物を自然空間に溶け込ませること。貝氏の作品の多くは見る者に衝撃を与えるもので、代表的な作品も数え切れないほど。最も知られているのはフランスのルーヴル美術館の中庭にある透明なピラミッドで、フランス政府は貝聿銘氏に最高位の勲章であるレジオンドヌール勲章の「シュヴァリエ(騎士勲位)」を授けている。
また、香港セントラル(中環)花園道1号の中国銀行タワーも貝聿銘氏の代表作。設計のアイデアは竹の「節節高昇」(一歩一歩地位や業績を上げていくこと)から来ており、パワーと生命力、成長と向上心を象徴している。2006年にオープンした蘇州博物館の西部新館は黒い瓦と白い壁が蘇州における古城のユニークさを現代の都市に融合させ、建物と周辺環境を調和させたもの。貝聿銘氏自らが最後の作品として設計したものとされる。貝家の発祥の地が蘇州であるからで、地元では感動的なエピソードとして伝えられている。
日本の滋賀県にあるMIHO MUSEUMは貝聿銘氏が日本に残した「桃源郷」。吊り橋やトンネルで深い山と谷を通り抜けた先に美術館があり、これも建築物と自然環境が融合した傑作である。
貝聿銘氏と台湾との関係は深い。貝氏の父親はかつて台湾に長く滞在し、貝聿銘氏もしばしば台湾を訪れた。1970年に日本の大阪で開催された日本万国博覧会における中華民国館は貝聿銘氏が手掛けたもの。
台湾で最も有名な貝氏の作品は、陳其寛氏と共同で完成させた路思義教堂(教会堂)。東海大学(台湾中部・台中市)のキャンパス内にある。外観は両手を合わせた「合掌」のようで、カーブのついた薄い2枚の壁とも屋根ともつかぬ面で構成されている。1963年に落成してから今日まで、その前衛的で独特の建築工法、並びに柱も梁も壁も無い建物は極めてユニークで、東海大学のキャンパスの象徴であるばかりでなく、台中を訪れた観光客がこぞって訪れる観光スポットにもなっている。路思義教会堂は「20世紀の世界で最も美しい十大建築物」に選ばれ、今年文化部(日本の省レベル)によって国の定める文化資産へと格上げされた。
さらにほとんど知られていないのは、台湾には貝聿銘氏の手によるゴミ焼却施設が二つあること。八里垃圾焚化廠(台湾北部・新北市)と新竹市垃圾資源回收廠(同北部・新竹市)だ。八里焚化廠はグラスウォールの外観と四角い煙突が焼却施設の固定観念を覆した。それにとどまらず、前衛的な形でビルに呼応した、傾いた正方形の東屋も設けられており、八里のランドマークであるばかりでなく新婚カップルがウエディングドレス姿で訪れる撮影スポットにもなっている。
カタールのドーハにあるイスラム芸術美術館は貝聿銘氏が91歳の時に完成させた作品で、生涯最後の大型設計案件だった。
国立交通大学(台湾北部・新竹市)建築研究所の教授で人文社会学部の学部長も兼任する曽成徳氏は、貝聿銘氏がマサチューセッツ工科大学の卒業論文の中で竹による構造力学を研究していたことはあまり注目されていないが、このことから貝氏が早くから材料の理解と材質に合わせた工法に非常にこだわっていたことがうかがえると指摘した。
貝聿銘氏がハーバード大学の設計学部で学んでいた時の修士課程修了制作は上海における美術館の設計だった。当時の指導教授でバウハウスの創立者だったドイツ人建築家のヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)氏はこれに反対した。その理由は、飛び抜けて優秀な学生だった貝聿銘氏がモダニズム建築ではなく、東洋のコンセプトを選んだこと。しかし貝聿銘氏は自らの信念を曲げなかった。その結果、完成した作品をグロピウス氏も絶賛。曽成徳氏は、「このことは貝聿銘氏が学生のころから人より強い主張を持っていたことを証明している。また、グロピウス氏の心も広く、反対から支持へと転じる過程は建築界に大きな啓発をもたらしたのだ」と語る。
貝聿銘氏の作品には常にモダニズムのシャープな線が見られる一方、東洋の「禅」の味わいも残る。東海大学キャンパス内の路思義教会堂はその「線」だけで人を驚かせる。キャンパスでは中国大陸の江南地方を模した山水の風景とバウハウスによるモダニズムが不思議に組み合わさっている。曽さんは、「東洋と西洋、伝統と現代、貝聿銘氏はいずれも自在に操る。これからも貝氏をずっと偲ぶことになろう」と話している。
また、東海大学建築学科の兼任専門家で副教授(Associate Professor)の黄明威さんは貝聿銘氏の建築事務所で5年近く働いた経験を持つ。黄さんは、貝聿銘氏は謙虚な人柄ながら人一倍活力にあふれていたと話す。貝聿銘氏を「最高のリーダーで建築家だった。そして最高の経営者だった」とする黄明威さんによると、貝氏は全体的な環境のバランスと調和にこだわっていて、その関心は一つの建築物の設計にとどまらなかったという。黄さんは、「貝聿銘氏の作品は無駄なものが取り去られており、ごちゃごちゃしていない。正確なジオメトリーが全てを伝えている」と語っている。
貝聿銘氏は2003年、米国のクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館から「ナショナル・デザイン・アワード」の「生涯功労賞(Lifetime Achievement Award)」を贈られ、「モダニズム建築の最後のマスター」と称された。「光線に設計させる」は貝聿銘氏の名言であり、その建築理念である。貝氏は、「建築とは太陽の光の下にある各種体積に対する精密かつ正確、卓越した処理である」と考えていたという。