2025/05/08

Taiwan Today

文化・社会

ジュエリーデザイナーの趙心綺さん、宝石の力で台湾を国際舞台へ

2019/06/14
美しく光り輝くジュエリーの世界で、「台湾の光」として輝くジュエリーデザイナーの趙心綺(シンディ・チャオ)さん。趙心綺さんが会社を立ち上げて15年目を迎えた。最初はたった1人だった従業員も、いまや欧州とアジアで合計100名近くになった。(聯合報)
美しく光り輝くジュエリーの世界で、ジュエリーデザイナーの趙心綺(Cindy Chao、シンディ・チャオ)さんは「台湾の光」として輝いている。この15年間に作った作品の数々は、コレクターに買い取られ、世界各地の有名美術館、国際オークション、重要な展覧会などでその姿を見ることが出来る。自宅のリビングをオフィスにしてこの仕事を始めた。いま、シックなモノトーンルックに身を包んだ趙心綺さんが座るオフィスでは、手前のデスクにワックス原型の材料やデザイン図が、背後の書棚には芸術関係の書籍や息子の写真が並ぶ。壁に貼られているのは、外祖父が在りし日に描いた建築図面だ。
 
こうしたものに囲まれて、趙心綺さんは「あれは創作の情熱です。私の体には親子三代にわたる芸術家のDNAが流れているのです。創作こそが、私が最も楽しめることなのです」と話す。
 
趙心綺さんの外祖父は建築家だった。父親は彫塑家だ。「彼らが私に芸術的な考え方と目を養ってくれたことを感謝しています。だから私が見る世界や私の作品は、一般の人とは違うんです」、「物心ついたときから、私の遊び場は外祖父の書斎や父親のアトリエでした。私はあれらの図面と一緒に大きくなったんです。私には建築家の思考と、彫塑家の腕が備わっているのです」―趙心綺さんはそう話す。
 
趙心綺さんのワックスモデリングの手法は凝っていて、いまではヨーロッパの100年続く名店でも、このような作業をする職人はごくわずかだという。この点は外祖父と父親の影響を受けた。例えば箸をもってご飯を食べるのと同じように、小さいころから彫塑を作ったり、建築のミニチュア模型を作ったりすることに慣れ親しんでいた。周りから見聞きするうち、知らず知らずに薫陶を受けていたのだ。
 
父親はかつて琉園や琉璃工坊などガラス工芸の大手で働いていた。「彼は私にとって厳しい先生でしたが、私にとって最良の父親ではありませんでした」と趙心綺さんは振り返る。なぜなら父親が作るのは大型の彫塑で、且つ写実的な傾向のある作品を好んでいたからだ。それに対して趙心綺さんの作品は緻密で細かい装飾が特徴で、しかもどちらかと言えば抽象的な作品だった。二人は1年半にわたり、共同で作品を作っていたが、それは最初から最後まで悪夢のような日々だった。
 
その父親は62歳の若さで、脳卒中で亡くなった。二人の最初で最後の共同作品となった『瘋狂的鹿』は、父親の初七日の日に完成した。父親と娘の親子の情と美学が衝突し、引っ張り合うような作品だった。この作品は、あるコレクターが後に購入したが、2016年にそのコレクターから借り入れる形で、パリで開催されたパリ・アンティーク・ビエンナーレに出展した。
 
趙心綺さんは2004年に会社を立ち上げた。まだ、台湾ではジュエリーをアートとして楽しむ風潮がない時期だった。しかも、まだ無名に近かったから、行く先々で壁にぶつかった。
 
当時、趙心綺さんは「とてもクレージーな決断」をした。9歳になる息子を、学費が高額なことで知られるヨーロッパの寄宿学校に入れたのだ。それは、趙心綺さんが残忍な母親だったからではない。教育によってこそ運命を変えることができると信じていたからだ。また、当時は自分も昼夜を問わず忙しく、創作のために3日間もこもりっきりになることも日常茶飯事だった。息子の世話をしてくれる人がいないことを案じた趙心綺さんは、息子をヨーロッパの寄宿学校に入れることを決意した。学費を払い終えたとき、趙心綺さんの財産はわずか860米ドルになっていた。
 
「あのときの私の原動力は、来年の学費を稼がなくてはいけない、ということだけでした。私は諦めてはいけない。どんなに苦労しても、どんなに辛くても、必ずどうにかしなければいけない。なぜなら息子がヨーロッパで私が学費を払ってくれるのを待っているのだから」―これが、趙心綺さんが築き上げたジュエリー王国の原動力となった。そのときの目標はただ、息子があの学校にいられるようにすることだった、と言う。その息子は10年後、高校の卒業証書を手にした。その瞬間に肩の荷が下りた趙心綺さんに、息子は「この卒業証書は、ママが受け取るべきものだ」と告げたという。
 
趙心綺さんが会社を立ち上げて15年目を迎えた。最初はたった1人だった従業員も、いまや欧州とアジアで合計100名近くになった。生きるためにがむしゃらに働いた最初の5年が過ぎた2009年、国立アメリカ歴史博物館が趙心綺さんの作品を収蔵してくれた。そこから、趙心綺さんの会社にとって次の5年間がスタートした。当時を振り返って趙心綺さんは「あのとき台湾ではさっぱりでした。でも、私はそのことを感謝しています。もし私が台湾でうまく行っていたなら、海外へ出て行こうとは思わなかったから。人は快適ではないところに身を置いて初めて、なんとしてでもそこから出て行こうと思うものです」と語っている。
 
いま、趙心綺さんの会社は3回目の5年間の最終段階にある。趙心綺さんはパリ・アンティーク・ビエンナーレ、英マスターピース・ロンドン、最近開催されたTEFAFマーストリヒトといったトップクラスのアートやアンティークの展覧会に初めて出展した台湾のブランドだ。また、その作品はサラ・ジェシカ・パーカーさんやジュリア・ロバーツさんといったハリウッドスターも愛用している。
 
どれほど困難なときも、趙心綺さんの芸術に対する思いがぶれることはなかった。それは、自分の最もいいものを誰かに見てもらいたいという思いがあったからだ。「一度高みを極めたら、あなたのほかの作品について疑問を持つ人はいないでしょう」と趙心綺さんは話す。趙心綺さんは自身の代表作である『バタフライシリーズ』を例に挙げて、「あの作品がなぜ有名なのでしょう?」と問いかけた。そして、「それは私が当時、この作品が私の最後の作品になると思っていたからです。だから私は市場のことなど全くお構いなしに、自分がそのとき持っていた最高の技術、技巧、アイディアをすべて投入して、この作品を作ろうと思ったのです」と続けた。この作品は後に国立アメリカ歴史博物館に収蔵されることになった。
 
サラ・ジェシカ・パーカーさんはもともとコレクターだったが、その後、友人として趙心綺さんを応援し、イベントに出席するようになった。2014年の『バタフライシリーズ』で協力した際は、サラ・ジェシカ・パーカーさんがサザビーズの雑誌の表紙を飾ったほか、作品が競売にもかけられた。ジュリア・ロバーツさんは今年のアカデミー賞のプレゼンターを務めたとき、趙心綺さんが作ったジュエリーを身に着けて登場した。
 
「私は自分のことを馬のようだと思っています。馬は走っているとき、目を閉じています。私も目を閉じて走って、常に前進しています」、「人間の力の限界に達したと思ったとき、私は歩みを止めるでしょう。ずっと最善を尽くしてきて、人生をやり直す時間などなかったのですから、後悔するようなことがあるでしょうか?」――趙心綺さんはそう語っている。
 

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