台湾の天主教聖母聖心伝教修女会(Missionary Sisters of the Immaculate Heart of Mary)は13日、60周年を迎えた記念式典を開催した。そこで、陳建仁副総統、監察院の張博雅院長、台北市民政局らが見届ける中、3人の修道女に台湾の身分証が授与された。陳建仁副総統は、聖母聖心伝教修女会の社会的貢献を高く評価し、台湾の代表としてその奉仕の精神に謝意を表した。
ベルギーの看護学校を卒業したMaria Claeys(葛永勉)さんは、1963年に天主教聖母聖心伝教修女会から台湾に派遣された。Maria Claeysさんは当時、ベルギーからまず列車に乗ってフランスへ行き、さらに1カ月の船旅を経て香港に到着、香港で船を乗り換えて、ようやく台湾北部・基隆港に降り立った。台湾では、台湾北部・台北市萬華区にある聖若瑟醫院(聖ヨセフ病院)で勤務、このときからこの地に根を下ろした。
この時の聖若瑟醫院は、わずか2階建の建物だったが、付近では最も高いビルだった。台湾では当時、早産時に対する医療がまだ行き届かず、その治療費もかなり高かった。大部分の家庭では大病院での早産児ケアに係る費用が負担できず、何もできないまま見過ごすしかなかった。このような状況を見たMaria Claeysさんは、早産児ケアセンターを創設することを決心した。
聖若瑟醫院の資料によると、1963年の同病院では、電球で保温する保育器がわずか2つだけしかなかった。それも他の病院から借用したもので、保育器に入った早産児が2カ月も入院することも珍しくなかった。
そのような状況にもかかわらず、よその医師や助産師の間には、聖若瑟醫院は、費用も安く、母子へのケアが優れているという噂が聞こえ、「それなら運試しで」という気持ちで子供を連れて診察に来るようになる保護者が徐々に増えた。診療にあたる修道女は来る患者は拒まず受け入れたため、早産児が増えるにつれ、診療スペースが不足するようになった。しかし病院の増築費用は捻出できずに、欧州各国の関連組織に何度もすがるしかなかった。
Maria Claeysさんは「保育器は当時、かなり高価な医療設備だった。そのため聖若瑟醫院は購入できず、他の病院から借りるしかなかった。1964年にようやく、1台の保育器を購入し、その後5年間で13台にまで増やした。しかしそれでも早産児が増加するスピードに追いつかず、1台の保育器に3~4人が新生児を何とか入っていた」と当時を振り返った。
聖若瑟醫院早産児ケアセンターが創立10年を迎えた頃、院内には38台の保育器が設置され、1日平均100人の早産児が入院していた。多いときは271人の早産児が入院していたこともあり、台湾最大の早産児ケアセンターになった。台北市で勤務するほとんどのタクシー運転手が「早産で産まれたら萬華区の外国人修道女がいる病院へ行きなさい」という話を耳にしたことがあるほどだ。
Maria Claeysさんが聖若瑟醫院での日々を、故郷ベルギーの人たちに伝えると、多くの人が感動し、ベビーフード、毛布などの物資のほか、寄付金を快く送ってくれたという。寄付金は、病院の経費にあてられ、支援物資で急場をしのぐことができた。このようにして、台湾最大の早産児ケアセンターが成立し、後に社会福祉サービスの展開、公衆衛生の向上を推進し、医学界に数々の伝説を残すようになる。
一方、二人目は、76歳を迎えるフィリピン出身のTeresita Enriques(安徳蘭)さん。聖母聖心伝教修女会の会長を務める。台湾での奉仕活動は39年に及ぶ。台湾に来た当初は台湾北部・新北市のカトリック系学校、光仁中学・小学校に籍を置き、生活指導やカウンセリングサービスを専門的に行っていた。中華民国国籍の取得が実現したTeresita Enriquesさんは、「無上の光栄」と喜び、「台湾を愛している。台湾の人たちはみんな私の家族」と声高らかに語った。台湾での投票権を得たTeresita Enriquesさんは、候補者について細かい所まで理解し、台湾に最もふさわしい候補者に投票すると強調した。
三人目のZarraga Nellie De Leon(柴鼐立)さんは、台湾で33年間の奉仕活動の経験を持つ。Teresita Enriquesさんと同じ学校の同級生で76歳。1971年に台湾に渡って以来、途中6年間はフィリピンに戻って研修を重ねた。かつて、モンゴルでも奉仕活動をしていたことがある。既に台湾人になっていると自負しているNellie Zarragaさんは、外国へ派遣され、奉仕や交流をする時は、台湾代表という身分を語っていたが、本当に台湾の身分証を手にすることができる日が来るとは思わなかったという。