仏ミシュランは今年4月、台湾北部・台北市のレストランを格付けした『ミシュランガイド台北』を発表した。34歳の何順凱さんが経営する台湾風フランスレストラン「態芮(Taïrroir)」は2つ星を獲得。前年の1つ星から、格付けを1ランク上げた。
「私のプレッシャーは次の年に取れる星の数とは関係なく、すべて客から受けるものです。1つ星を取ったとき、客は拡大鏡で自分を見てくれました。星を2つ取ると、今度は顕微鏡で見るようになるのです。その期待感に応えるのが最も難しいのです」―何さんはこう語る。
私立明道大学餐飲観光学院(=ホスピタリティ及び観光マネジメント学部)で中国料理を学んだ何さんにとって、フランス料理の世界は特別な存在だった。いまでは、蚵仔煎(カキのオムレツ)、茶葉蛋(台湾風煮卵)、塩焗鶏(鶏肉の塩釜焼き)など台湾の伝統料理を、全く新しいフランス料理として出すことができる。しかし、これらの料理を作り出す要素は、記憶に頼るところが大きい。例えば茶葉蛋などは、子どもの頃、長距離バスのターミナルセンターで、バスを待っているときに両親が買ってくれた茶葉蛋の記憶だ。何さんが料理によって引き出したいと思っているのは、誰にとっても懐かしく、それでいて忘れかけそうになっている思い出だ。
何さんは20代のはじめ、英語もできないのにアメリカへ渡った。それからシンガポールや中国にも移り住んだ。厨房の中だけでなく、外にいるときも、異郷の文化を吸収しようと必死にもがいた。何さんは、シェフは料理が作れるだけでなく、生きることを学ばなければならないと考えていた。
何さんがシェフになろうと決めたのは小学6年生のときだった。大家族だった実家は、プラスチック工場と運送業を経営していた。何さんは子どものころからアニメや漫画に興味がなかった。一番好きだったのは、祖父と一緒にあちこち歩き回ることだった。何さんが子どものころ、家には来客が多かった。1週間に2~3回、自宅で大規模な食事会をすることもあったし、外食することも多かった。何さんは小さいときから、台中(台湾中部)のいくつかの名店の味をよく知っていた。
何さんはその後、料理の作り方に興味を持つようになった。そこで、時間さえあれば親戚のおばさんが料理するところを眺めるようになった。
大学に入って心機一転、料理の勉強を始めた。17歳のとき、料理の全国大会で1位をとった。18歳のとき中国料理の全国大会で優勝した。「当時はちょっと得意になっていました」と何さんは振り返る。
いまでこそ、レストランの経営計画や内部の動線を自ら考え、食材の産地を訪れては自ら調達する何さんだが、以前はそうではなかった。大学3年生のとき、台北市内のホテルにあるステーキハウスで実習を受けたことは、大きな転機となった。「あのころ、毎日の仕事といえばジャガイモを焼くこと、調達部まで食材を取りに行くことでした。細くて狭いホテル内の通路を、お腹を空かせながら、重い台車を引いて食材を運ぶことに、いささか不満だった。
「料理を学びに来たのに、なぜこんなに地位の低い仕事をしなければいけないんだろう」と思うこともあった。ある日、寝坊して遅刻してしまった何さんが慌ててレストランに駆け込むと、50代のシェフがすでに、何さんの替わりに地下へ行って食材を運んできたあとだった。何さんは驚いた。「仕事に地位の低いも高いもない。彼はシェフなんだぞ!それなのにあの人は、細くて長い通路を歩いて食材を取りに行き、大勢の人に見られても、笑顔を見せて逢う人たちと挨拶をしていたのだ」。そう考えると、肩の荷が下りた。いまでは、人生のそれぞれの段階で、それぞれの養分を得ることができたと考えている。
「私の仕事は、私のライフスタイルそのものです。レストランにしてもそうです。自分が嫌いなものを客に出すことはありません。例えばパクチー。客に出す料理は、必ず私自身が好んで食べるものと決めています」、「私は厨房に立つのが好きです。シェフであることが好きです。ずっと自分がとても幸せだと思ってきました。ずっと好きなことができるからです。もちろん、幸せの中には、幸運の成分もあります。少なくとも私は、現実的な要素に迫られて、やりたくないと思うことをしなくてもいいのですから」―何さんはそう前向きに語っている。