清の時代の小説家、曹雪芹の作品で世に伝わっているのは『紅楼夢』だけではなく、ほかに8冊の原稿があった。国立清華大学(台湾北部・新竹市)歴史研究所の「特聘講座教授」(特聘教授=Distinguished Professor、講座教授=University Chair Professor)で台湾の最高学術研究機関・中央研究院の院士(フェロー)でもある黄一農氏はこのほど、ビッグデータと従来の考証方法を組み合わせた「e考據」(e考証)により、書物で触れられた人物3人の本当の身分を探し出すことに成功した。それにより、半世紀にわたって議論されてきた工芸教材の原稿8冊、凧や刻印の作り方などを記した『廃芸齋集稿』が間違いなく曹雪芹の手によるものであることを確認したのである。
黄一農氏によれば、『廃芸齋集稿』は8巻1組の工芸教材。刻印、凧、織物、型作り、織物の補修、染物とプリント、園芸、料理の8つの技術がそれぞれ綴られている。そのうち「南鷂北鳶考工志」では、「肥燕」、「痩燕」、「比翼燕」、「雛燕」など様々な形式の凧の作り方が順序立てて説明されている。また、墨で書かれた図、色付けされた図、秘訣なども付いている。
『廃芸齋集稿』は1943年、日本軍に占領されていた中国大陸の北京で見つかった。今では100歳となる孔祥澤氏は当時、北京の北華美術専科学校で学んでいた。孔祥澤氏の教師は日本人の凧愛好家で、日本の骨董品業者の金田氏が北京で入手した8巻1組の写本のうち1冊全てに中国凧の作り方が書かれていると知り、孔祥澤氏にそれを写してくるよう命じた。
金田氏は写真での複写を許さなかったほか、写本の貸出期間も1カ月に限定。さらに、写す者には毎日、第8巻に書かれたレシピで料理を作って金田氏に食べさせることを条件とした。孔祥澤氏は薄紙を原稿にかぶせて文字を写し取るしかなかったほか、時間も限られていたので主に凧について記した1冊に集中した。しかし結局、26日間写した段階で金田氏は写本を日本に郵送してしまい、この写本はその後行方不明となった。
『紅楼夢』の研究者、呉恩裕氏は1973年に、『廃芸齋集稿』の作者が書いた序文の落款である「芹圃曹霑」は、曹雪芹が名を隠して書いたことを表しているとの見解を発表、『紅楼夢』の研究者たちの間で大きな議論を巻き起こした。
『紅楼夢』研究の権威である黄一農氏は今年初めに北京に孔祥澤氏を訪ね、ビッグデータを用いた「e考據」でこの謎を調査してみることを思いついた。凧について記された部分には、愛新覚羅・敦敏による「瓶湖懋齋記盛」が掲載されている。これは乾隆23年(1758年)の12月24日に北京の太平湖で開かれた宴会のことで、宴会の主人である敦敏が著名な書家で画家でもある董邦達や数名の友人たちを招いて絵画を鑑賞、さらには曹雪芹の作った美しい凧も楽しんだという。黄一農氏はそこで、複数の『紅楼夢』研究家が数十年間挑戦しても見つけられなかった、この宴会の招待客の本当の身分を明らかにできれば、そしてそれらの人々と曹雪芹との交流があったことが確認できれば、この原稿が後に別人によってねつ造されたものではないことの証になると考えた。
最初に探し当てたのは「○舅鈕公」。黄一農氏は、この人物は「国舅」(皇帝の母か妻の兄弟)ではないかと考え、「e考據」で年齢や年代、階級が記述と合致し、屋敷を与えられていた者を調べたところ、「○舅鈕公」は乾隆帝の母親の弟の「承恩公伊松阿」で、さらに「伊松阿」の息子が曹雪芹のいとこ姪と結婚していたことがわかった。「国舅鈕公」の正式な身分が明らかになったのである。
次に身分が不明だったのが別名「子龢」の「過三爺」。「瓶湖懋齋記盛」には敦敏が通州まで「過三爺」を迎えに行ったと記されているので、「過三爺」は南方からやって来た人物だと考えられる。また、わざわざ迎えに行っていることから、一定の社会的地位を持つ人物、例えば科挙試験の郷試に合格した「挙人」や最終試験もパスした「進士」である可能性があった。黄一農氏はそこで、「e考據」を用いて京杭大運河沿いと南側の山東省、浙江省、江西省、福建省などで「過」を姓とし、名声を得た人物を探したところ、雍正2年(1724年)に科挙試験で郷試に合格した「過秉鈞」が見つかった。
黄一農氏はさらに、昔の人で「子和(龢)」をあだ名とする人物の名前にはしばしば「鈞」という字があることを発見。「鈞」と「君」は同音であることから、「君子和而不同」(君子は和して同ぜず=君子は人と調和するが、立場を忘れることは無い)の意味を表していると考えた。
三人目は「恵敏」。この人物は清朝の皇帝の一族ながら足が不自由な養子で身寄り無く、生活に困窮していたことから敦敏は曹雪芹が「恵敏」に凧作りを伝授してくれるよう望んだと書かれている。黄一農氏は清朝政府の「玉牒」(皇族の家系図)で愛新覚羅の系図(合わせて十数万人が記されているという)を整理し、敦敏の同世代に「恵敏」がいることを突き止めた。身分や様々な事情が原稿と一致したという。
黄一農氏が従来型の考証とビッグデータの技術を組み合わせて生み出した「e考據」はすでに文学史の様々な謎を数多く解き明かしてきた。「e考據」の画期的な成果は100億字を超える文学と歴史資料が数値化されたことによるものだが、従来型の考証方法も依然として求められている。黄一農氏は、「優れた学者はまず、いかにして良い問題を提起するかを知るべきだ。そしてどうすれば効果的にその答えが得られるかも知っていなければならない。キーワードを入力してただ検索すればいいわけではない」と話している。
黄一農氏は国立清華大学物理学科卒業、米コロンビア大学で天文学博士を取得してから数年間は電波天文学者を務めた。その後、科学技術の歴史研究に転向し、20年も経たないうちに中央研究院の院士に迎えられ、さらには『紅楼夢』研究の権威となっている。黄一農氏はそのしっかりとした文学・歴史に関する知識と豊かな連想力に加え、ビッグデータの助けも借りて、はるか昔の人物の地縁、親友、同郷、同じ学習分野、師弟などの関係を調べ上げ、謎を解決するカギを見つけ出す。黄一農氏の分析能力は台湾最大の興信所からも高く評価され、その教え子を高給で雇いたいと声がかかるほどだという。
今回、文学史上の大きな謎を解き明かした黄一農氏は、『紅楼夢』を愛する読者たちが曹雪芹についてより深く知ってほしいと願っている。曹雪芹は単なる小説家ではなく、凧の達人であり、園芸のマスターであり、名シェフでもあった。そしてさらに得がたいのは、曹雪芹が人道主義を実践した人物だったこと。8巻1組の工芸教材を著したのは、体に障害のある人たちが手に職をつけ、生計を立てられるようにするためだったのである。黄一農氏は、『廃芸齋集稿』がいつか再び日の目を見て、曹雪芹が残した工芸の傑作の数々を目に出来るようにと願っている。