私たちは国立故宮博物院の収蔵品を一般に「国宝」と呼んでいる。しかし、実は2005年に政府が「古物分級制」を実施して以降、真の国宝には一定の認証条件が設けられている。このため国立故宮博物院の収蔵品も「重要古物」や「国宝」など異なる等級が付けられている。現在、同博物院の収蔵品は70万点近くに及ぶが、そのうち行政院(内閣)が「国宝文物」(=国宝)と公示しているものは2019年7月までで4万8,012点。「四庫全書」など同博物院文献処の収蔵する国宝4万7,601点を除くと、同書画処の芸術作品である国宝384点、同器物処の国宝27点となる。器物処の27点のうち2点で1セットになっているものはそれぞれ片方しか公開されていないが、それ以外の合計25点はいずれも国立故宮博物院で展示されている。
行政院が先ごろ新たに公示した「国宝文物」には国立故宮博物院の収蔵品(器物)が4点含まれる。有名な「定窯白瓷嬰児枕」のほか、現存するのはわずか70点あまりとされる「汝窯」(中国大陸・河南省臨汝県にあったとされる青磁窯で、そこで製作された磁器のことを指す)が初めて2点、そしてあまり知られていない「宝石紅釉僧帽壺」が国宝に指定された。なお、国立故宮博物院の人気者である「翠玉白菜」と「肉形石」はいずれも2014年に「重要古物」に分類されており、国宝ではない。
今回、「北宋汝窯青瓷(青磁)無紋水仙盆」が文化部(日本の省レベルに相当)によって国宝に指定された。「汝窯」の作品には「貫入」がしばしば見られるが、これは唯一、全くそれが無いもので世界の注目を集めている。「北宋汝窯青瓷水仙盆」は合わせて6点存在し、そのうち4点を国立故宮博物院が収蔵。残りの2点は日本の大阪市立東洋陶磁美術館と中国大陸の吉林省博物院にある。「汝窯」はその釉薬と素地の成分により収縮率に違いがあるため、焼成後の冷却過程において表面にトンボの羽に見られるようなひび割れが現れる。これが「貫入」である。しかし、国立故宮博物院の「北宋汝窯青瓷無紋水仙盆」の表面は完璧な色とツヤが保たれており、「貫入」が全く無い。現存するものとして世界で唯一、「無紋」(貫入の無い)の「汝窯青瓷器」なのである。
清の時代(1683~1895年)の文献によれば、「水仙盆」は清の宮廷ではそう呼ばれていなかった。さらに1920年代に「清室(清朝皇室)善後委員会」が紫禁城で文物を整理した際にもこの種の器を「水仙盆」とは呼んでおらず、当時の呼び名は「冬青磁洗」、「仿官窯菓洗」、「官窯花盆」というものだった。そして1933年、国立故宮博物院は「故宮週刊」の中で初めて正式に、ある「冬青磁洗」を「宋汝窯水仙盆」と名付けたのである。
それでは清の時代、この種の「水仙盆」はどう呼ばれていたのか。雍正13年(1735年)に著名な督陶官(陶磁器の生産を管理する官僚)の唐英は「陶成紀事碑記」を著しているが、その中で触れられる「宋器貓食盆」こそ、今で言う「水仙盆」なのである。「貓食盆」とは猫がエサを食べる皿(フードボウル)のこと。この呼び方はその後の乾隆帝の時代(1736~1795)でも踏襲されている。このように雍正と乾隆の2時代の文献でいずれも「貓食盆」と呼ばれてきたにもかかわらず、乾隆帝は彼が所有していた3点の「汝窯水仙盆」に、「猧食盆」という言葉で詩を彫っている。
「猧」はすなわち「猧子」。犬のパグのことであり、「猧食盆」は「パグがエサを食べる皿」という意味になる。乾隆帝はしかし晩年の1799年、過去に書いた詩を見直す機会があり、その時には「謂猧食盆誠瀾語」(「猧食盆」とは冗談だ)として過ちを正している。このため、「貓食盆」という呼び方は清の時代の初期に主流だったものと思われる。
「汝窯青瓷無紋水仙盆」は全体的に青色をしているが、縁と角で釉薬が薄くなっているところには淡い光沢が見られる。底の部分には乾隆帝が刻んだ「猧食盆」の詩が残る。驚くべき点は焼成することで現れるはずの「紋路」(貫入のこと)が全く無いこと。国立故宮博物院器物処の余佩瑾処長によれば、「汝窯」はもともと「宋瓷」(宋の時代の磁器)の代表的なもの。明の時代の文献に記された「汝窯」の鑑賞法では、「有紋者真、無紋者尤佳」(貫入のあるものこそ本物。無い物は特に優れている)と書かれている。「無紋水仙盆」は世界で唯一、「貫入」の全く無い「汝窯」なのである。
このためこの作品は常に注目されてきた。国立故宮博物院は台北市(台湾北部)に移って来る前、多くの逸品をイギリスに貸し出し、ロンドンで展示した。イギリス側は80個の箱につめられた芸術品の中からこの作品に注目し、一度は後に作られた模倣品ではないかと疑ったという。しかし最終的に、北宋の時代のものと確認した。
2016年、日本の大阪陶磁美術館は国立故宮博物院の収蔵品を借り受けて展示会を開いた。この時にも日本側はこの作品を大いに気に入ったが、「無紋」であることがあまりに特殊であるため一度は疑問を持った。しかし結局、皿の底の足の部分の製作方式から北宋のものと判断できたという。興味深い呼び名について余処長は、1930年代には中国大陸・北京で「水仙盆」と呼ばれており、さらに遡ると清の慈禧太后(西太后)の時代にこうした底の浅い盆をいずれも「水仙盆」と呼称していたと説明している。清の宮廷では宝石を用いた「假盆景」(箱庭のようなもの)が作られており、そうした中には「水仙盆」を使ったものもあったという。
なお、今回国宝に指定された国立故宮博物院の収蔵品4点にはいずれも乾隆帝が詩を彫っている。外国人の多くは乾隆帝が先人たちの作品に文字を彫るのをこれほど好んだ理由に悩む。しかし乾隆帝の芸術品を見る目は確かで、彼が詩を刻み込んだ作品は往々にして絶品なのだという。また、その詩は当時の情報を提供し、私たちがかつての時代と芸術をいっそう理解できるよう助けてくれるのである。
国立故宮博物院が収蔵する磁器は2万6,000点。皇帝の字が世界で最も多く残っている器もここにある。すなわち「重要なものはすべてそろっている」。余佩瑾処長は、乾隆帝が文字を残すのに選んだ器がほぼ全て「青瓷」(青磁)であることから、乾隆帝は素朴で優雅なものを大変好んだのではと推察する。ただ当時、こうしたものを焼き上げるのは難しく、乾隆帝は詩を彫り込むことで自らの鑑賞力を示すしかなかったのである。