2025/06/28

Taiwan Today

文化・社会

あの頃の大学校歌-台湾大学の『望春風』や清華大学の『情歌』三部作

2020/05/29
台湾の各大学の校歌にはそれぞれ時代的な背景がある。歌詞が現代にそぐわないとされて変更されるものも。写真は歌詞の変更を予定している国立台湾師範大学の正門。(自由時報より)
大学の校歌の歌詞にはそれぞれの時代背景があり、卒業生にとって共通の記憶である。だからこそ歌詞の変更は世代の異なる卒業生の間で意見が割れる状況を生み出す。
 
台湾で最も優秀とされる国立台湾大学(台湾北部・台北市)の校歌の歴史を見ると、現在の校歌の歌詞は文学部の2代目学部長だった沈剛伯氏が書いたもの。当時の銭思亮校長(学長)の度重なる修正を経て1963年12月17日に同大学行政会議で承認された。その後、当時の「漢語言学の父」、趙元任氏が曲をつけ、1968年12月5日に正式に使用されるようになって今に至る。
 
しかし、実はそれより早い1947年、陸志鴻氏が校長を務めていたとき、同大学には許寿裳教授作詞・蔡継琨氏作曲の「台大校歌」があった。ただ1952年、「国立台湾大学学生代表聯合会」(現・学生会)は、「歌詞が奥深すぎる」、「広まっていない」といいう2つの理由で、新たな歌詞の校歌を作るよう学校側に提案。このため同大学は1952年から1968年までの16年間、校歌が無い状態が続いた。この間、校内では代わりに台湾の懐メロの『望春風』が歌われたという。ただ、『望春風』が同大学の学生によって校歌とされたことを記録した書面は残っていない。
 
国立清華大学(台湾北部・新竹市)は中国大陸・北京での創設時から校歌があった。最初の校歌の歌詞は外国人教師の女性、Kathorine E. Seelye女史が書いた。歌詞は英語で、タイトルは『Tsing Hua College Song』。後に『清華優勝歌(Cheer for old Tsing Hua)』も登場。教師と学生からは好かれたものの、校歌とするには不適切と判断された。
 
その後、同大学では『清華愛国歌』や『清華進行曲(March Forward Tsing Hua)』なども生まれたが、いずれも校歌には採用されなかった。そして1923年、同大学は中国語の校歌を一般公募。当時、同大学で国語と哲学を教えていた汪鸞翔教授が『西山蒼蒼』を応募し、学外の著名人によって入選作に選ばれた。当時同大学の英文文案処で主任を務めていた何林氏の妻・張麗真女史が曲をつけ、趙元任氏が合唱曲に編曲、こうして教師と学生が共に愛し、歌い継がれる校歌がついに生まれた。ただ、同大学の学生と卒業生になじみ深いのは『清華情歌』三部曲(清華のラブソング三部作)。電気工学科の卒業生、羅亦耀氏が作った歌で、同大学のほとんどの「営隊」(オリエンテーション活動)で歌われる歌になっている。
 
羅亦耀氏は当時、同大学のサークル活動である康輔社(康楽輔導社)のリーダーを務めており、『清華情歌』は康輔社のために書いた歌だった。そして大学3年生のとき、電気工学部が行うオリエンテーション活動の幹部を務めたことから強引に『清華情歌』を同活動の歌に決定。それから康輔社がこの曲を同大学の他のサークルに教え始め、徐々に「ヒットした」のだそうだ。
 
曲を書いた当時、羅亦耀氏はすでに卒業間近だったことからセンチメンタルになっていた。恋愛経験も無く、この歌は母校に宛てたラブソングだった。ただ、その後、妻となる女性を口説く中でも歌って見せたという。またあるとき、後輩たちが『清華情歌』は同大学の全学生が歌え、もはや康輔社の専売特許ではないとして、新たな曲を書くよう求めてきた。羅亦耀氏は後輩たちにサークルの部屋に「軟禁」され、2時間あまりで『坐在清華看星星』(清華に座って星を見る)二部作と、『相思湖的水』(相思湖の水=相思湖は国立清華大学のキャンパスにある池の名称)三部作を書き上げた。
 
国立清華大学出身で、民間団体「原子力に関する噂の終結者(Nuclear Myth Busters)」を創設した黄士修氏は当時を振り返り、『清華情歌』は1年生のときすでに2、3回歌っていたのに対し、正式な校歌を歌ったのはわずか1回だったと話す。理由は校歌があまりにも歌いにくかったから。黄士修氏は、大学生の中国語レベルは低下する一方だとし、「『巋然中央、大同爰躋、鄴架巍巍、餚核仁義』(中央に聳え立ち、大同の境地に達する。勉学のための書物が整い、精神的糧となる)という歌詞の意味が分かればいいが、もしかしたら読み方さえおぼつかないのでは」と話す。
 
国立交通大学(新竹市)は中国大陸の上海で誕生した大学。同大学が台湾で復活した当初は上海時代の校歌を使っており、1975年になってようやく、メロディはそのままながら歌詞は変更された。新たな歌詞は当時、同大学工学部の学部長を務めていた盛慶氏が手がけた。その後、学部と学科が増えたこと、ならびに中国大陸との関係も変化してきたことから、張俊彦校長(当時)の下、校務会議で上海での校歌を再び使用することを決定した。2001年、同大学音楽研究所(大学院)の教師と学生たちは、メロディはそのままに7種類の歌い方と演奏を収録したCDを制作。「思源頌」と題して同大学の校歌に音楽的な価値も与えた。
 
国立政治大学(台北市)の校歌は2017年9月、校務会議が歌詞の変更を承認したものの、新旧の歌詞を並行で使用することにした。新たな歌詞では、「実行三民主義為吾党的使命」(三民主義の実行が我々の使命)という部分を「実践民主法治是我們的使命」(民主法治の実践が我々の使命)に、「建設中華民国是吾党的責任」(中華民国の建設が我々の責任)を「維護自由人権是我們的責任」(自由と人権を守ることが我々の責任)へと改めた。
 
また、国立成功大学(台湾南部・台南市)は2007年に校歌の歌詞を変更。目的は校歌をより時代に即したものにし、校則に近いものとすること。例えば変更前の「遍東南神明遺冑、重洋負笈、來集斯堂、瞻望河山三萬里、腥羶未滌、仇恥毋忘」(広く東南に散らばる神の子孫が学びにやって来る。ここに集い、3万里かなたの山河を眺めれば、流した血はまだ洗い流されず、恨みを忘れてはならない)を、「喜天下菁英薈萃、不辞千里、来集斯堂、邁向頂尖迎理想、止於至善、耀綵鳳凰」(天下のエリートがはるばるここに集い、高い理想と善の極みを目指して鳳凰を輝かせる)に変更。ただこの校歌も、新旧の歌詞どちらも使えるようになっている。
 
国立台湾師範大学(台北市)はまもなく創設100周年の開校記念日を迎える。同大学ではこれに合わせて校歌プロジェクトチームを立ち上げて新たな歌詞を検討中。主には一部の学生が、歌詞のうち「台湾山川気象雄、重帰祖国楽融融」(台湾の山河と天気は素晴らしい、祖国に戻れば仲睦まじく)という部分が時代に合わないとして学校側に抗議すると共に変更を求めたことがきっかけ。校歌プロジェクトチームの責任者で、同校図書館の柯皓仁館長は「特定の一文を修正することは無い」と話す。特定の一文を変更したならば、世代の違いから生まれる卒業生の意見の対立につながるほか、互いの気持ちを傷つけあうことになるというのである。柯皓仁館長はこのため、学校としては大局的見地から学校の未来の方向によりマッチする校歌を作りたいと話している。
 
 

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