日本統治時代の1941年に開業した台湾北部・台北市大同区の産婦人科医院「福生堂」がこのほど、台北市の「市定古蹟(=市が指定する有形文化財)」に指定された。「福生堂」は大稲埕エリアで最初に誕生した、女医による産婦人科医院。台北市の文化資産審査委員は、「福生堂」は女性の産科医療史の発展を見守ってきた存在で、それが持つ文化資産、科学価値、芸術価値は極めて高いと指摘している。
「福生堂」を開業した女医の陳却は1916年、大稲埕で「福記商行」を営む陳福生の長女として誕生した。裕福な家庭で育った陳却は高い教育を受け、台北第三高等女学校(現在の中山女子高級中学)を卒業後、日本の東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に進学した。陳却は、同じく東京女子医学専門学校で学んだ台湾最初の女医・蔡阿信の「後輩」、台湾最初の女性外科医・謝娥の「先輩」に当たる。
呂大吉建築師事務所の呂大吉さんによると、「福生堂」には陳却の出生、進学、結婚、開業から退職後までの、人生の足跡と物語が保存されている。現在の所有者は、この建物を買い取った後、これらを整理する過程で、台湾史における陳却という人物のオリジナリティを発見し、これらを後世に残したいと考え、「市定古蹟」の認定申請を行った。
日本から台湾へ戻った陳却は、医師としての経験を積むため、1938年に台北帝国大学医学部(現在の国立台湾大学医学院附設医院)産婦人科学教室で無給医として3年間働いた。このとき、当時外科のクリニックとして有名だった「順天外科医院」の創業者・謝唐山の三男で、台北帝国大学医学部の外科で働いていた謝伯津と知り合った。
陳却は1941年、大稲埕に産婦人科医院「福生堂」を開業。大稲埕では初めてとなる、女医が開業した産婦人科となった。1943年には謝伯津と結婚。その生き方はまさに、職業婦人の先駆けであった。