2025/06/18

Taiwan Today

文化・社会

「物乞いの母」施照子女史を記念、「女性文化ランドマーク」が台北萬華区に

2021/11/09
「台湾における物乞いの母」と呼ばれた元日本人の慈善家、清水照子女史を記念するための「女性文化ランドマーク」(写真)が台湾北部・台北市の萬華区にある老人ホーム「愛愛院」内に設置され除幕式が行われた。(陳秀恵さん提供、中央社)
「台湾における物乞いの母」と呼ばれた元日本人の慈善家、清水照子女史を記念するための「女性文化地標」(女性文化ランドマーク)がこのほど台湾北部・台北市の萬華区に設置され除幕式が行われた。台湾における「女性文化地標」は15個目。除幕式には衛生福利部(日本の厚労省に類似)の李麗芬政務次長(副大臣)、台北市の黄珊珊副市長、そして清水照子女史の子女らが出席し、台湾に嫁ぎ、夫で慈善事業家だった施乾氏(1899~1944)の死後も半世紀以上、その遺志を継いで恵まれない女性たちを助け続けた偉大な女性を偲んだ。
 
施乾氏は当初日本の総督府で働いていたが、1922年、物乞いを助けるため現在の萬華区に「愛愛寮」(1933年に「愛愛院」に改称)を設立した。清水照子女史はもともと日本の京都に住んでいたが若いころに施乾氏の活動に関する報道を目にし、近隣の台湾籍の人の紹介で知り合うと、裕福な銀行家の息子の求愛や親の反対も顧みず、1933年に京都で施乾氏と結婚して台湾に移住した。神戸港から台湾に向かうその日、清水家の家族は誰も見送らなかったという。
 
しかし台湾に移り住むとすぐに清水照子さんはマラリアに罹り、数日間血便が続いたほか、収容している貧しく病気の物乞いたちと一緒に暮らすことに悩むことになった。さらに1944年、施乾氏が脳溢血で急死。未亡人となった照子女史は日本に帰ろうと考えたが、「愛愛院」の住民を見捨てることは出来なかった。そして1945年、第二次世界大戦が終わると照子女史は中華民国に帰化。施照子と改名した。
 
「女性文化地標」の総企画、陳秀恵さんによると、施照子さんは日本語以外あまり話すことが出来なかったが、夫の死後も「愛愛院」で恵まれない人たちを半世紀以上支え続けたとのことで、陳さんは「頭が下がる」と話している。施照子女史は2001年12月に92歳で死去。夫との間に1男3女をもうけ、末っ子で息子の施武靖さんが2001年11月に母親から「愛愛院」の院長職を受け継いだ。6日に「愛愛院」で行われた除幕式には施武靖さんと照子女史の次女、施香さんも参加した。
 
1991年、物乞いをして暮らす人が減る一方、費用を自己負担して入居を希望する人が増えつつあったことを受け、「愛愛院」は董事会(=理事会)の決定と監督官庁への届け出を経て有料老人ホームとしての業務も開始、台北市で最初の民間老人ホームとなった。照子女史を記念する楕円形の「女性文化地標」は台北市萬華区大理街にある「愛愛院」内に設置された。
 
「女性文化地標」は2006年にスタート。これまでに、台湾で初めて自治体の女性首長となった許世賢女史、台湾で最初の女学校である私立中学淡水女学堂などが記念の対象となっている。
 

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