2025/05/11

Taiwan Today

文化・社会

台湾における刑務所行政史の目撃者、台北監獄の塀古跡

2012/12/25
台北監獄の塀古跡。封をされたアーチ型の門はかつて「死体を搬送する門」と呼ばれたという。(中央社)
1910年前後の日本統治時代、日本からやってきた統治者は当時、台湾各地で日本による統治に抵抗する人々を鎮圧すると共に、台北と南部の台南に大規模な監獄を建設した。台北監獄は北側と南側の塀とアーチ型の門だけが残存、この古跡は中華電信株式会社東門サービスセンター(台北市金山南路2段52号)の塀の一部となり、台湾の刑務所行政の歴史を今も見守っている。 台北監獄は扇型を呈していた。これは19世紀における世界の監獄のモデルにならったもので、四方は高い塀に囲まれていた。当時の日本人は台北府を取り囲む城壁を解体して台北監獄の塀を築いた。主な材料は安山岩と唭哩岸石(台北市の士林北投地区で産出される建築用石材)だった。監獄の塀はレンガの「フランス積み」(一段に長い辺と短い辺を交互に並べていき、上下では長い辺の真ん中に短い辺がくるよう、目地をずらして積む方法)の伝統的な手法。目地には石灰、砂、土を合わふせた「三合土」が使われ、丈夫で耐久性の高いものとなった。 完成後、塀は厳粛な凄みに溢れた。古跡には赤レンガで封をされたアーチ型の門があり、「死体を搬送する門」と呼ばれたという。金山南路と愛国東路の交差点のガソリンスタンド付近にあった処刑場では当時、死刑囚の銃殺が公開された。遺族は深夜に、「死体を搬送する門」から遺体を引き取った。義賊の廖添丁や日本統治に抵抗した羅福星などは、みなここで散ったという。 台湾の人だけではない。この塀に埋め込まれた記念碑によれば、1944年の秋と1945年の春、撃墜されて捕まった連合軍のパイロットも台北監獄に収監されている。戦後、ここは中華民国政府によって引き継がれ、犯罪者を収容する場所として利用された。1963年になってようやく段階的な解体と移転が始まり、四方の塀が残るのみとなった。そして、今ではコケと雑草に埋もれながら、華やかな台北の裏通りにひっそりと佇んでいるのである。

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