2025/04/29

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台東県の元宵節「寒単爺」、ヤクザの神様から観光大使へ

2017/02/10
台湾南東部・台東県の「元宵節(旧暦1月15日、今年は新暦で2月11日)」と言えば「寒単爺(邯鄲)」に爆竹を投げつける祭りが有名。半裸状態の「寒単爺」に、爆竹を投げつける。(中央社)
台湾南東部・台東県の「元宵節(旧暦1月15日、今年は新暦で2月11日)」と言えば「寒単爺(邯鄲)」に爆竹を投げつける祭りが有名だが、その由来は定かではない。かつては厄を払い、幸福を祈願する祭りだったが、現在では高い観光的価値を持つ伝統民俗イベントとなっている。「ヤクザの神様」と呼ばれていたものが、歳月を経て文化の殿堂入りを果たし、いまでは観光大使と化している。
 
台湾の民間信仰で「寒単爺」は別名「玄壇爺」といい、天界の金庫を管理し、財を成すのに長けた武財神「趙公明」であるとされる。「寒単爺」が巡礼に出かける際、人々はその体に爆竹を投げつけるとされている。
 
しかし、台東県で行われる「元宵節」の祭りはなぜ、短パンだけ履き、上半身は裸の状態で、爆竹を一身に浴びる「炮炸肉身寒単爺(生身の人間が爆竹を投げつけられる寒単爺)」になってしまったのか。民間には2つの言い伝えがある。一つは、もともと寒がりな「寒単爺」のために、人々が火のついた爆竹でその体を温め、その見返りとして武財神の寵愛を求めたため。もう一つは、「寒単爺」は「ヤクザの神様」で、爆竹を一身に浴びることで威勢のいいところを見せようとしたため。日本が台湾を占領していた時代、台東では伝染病がまん延していたが、「寒単爺」は「元宵節」の機会を利用して各地を回り、金運アップを求める人々の願いをかなえると共に、厄除けと無病息災を祈った。「元宵節」が終わるころにはいつも、伝染病のまん延も落ち着いていたという。これはおそらく火を焚いて煙を起こすことで、病原菌のまん延を抑えたのではないかと考えられる。なお当時、爆竹を投げつけられるのは「寒単爺」ではなくて、それが乗っている神輿のほうだった。
 
1950年代から1960年代頃になると、それが生身の人間の体に爆竹を投げつけるものへと変化していった。このため、いかつくてたくましい体つきをしたならず者や、「アニキ」と呼ばれるような親分肌の男たちが、勇ましい「寒単爺」となって爆竹を一身に浴びるようになった。これは一方で威勢のいいところを見せつけるという意味を持ち、また一方ではならず者たちのグループが力比べをする場としての意味を持つようになった。「寒単爺」が「ヤクザの神様」と呼ばれるゆえんである。
 
そして、グループ間の抗争やヤクザ同士のいざこざが発生した場合、彼らは「寒単爺」に爆竹を投げつける祭りによって、その決着をつけるようになった。つまり、どちらが長く爆竹に耐えられるかを競うことで、勝ったほうの勢力が上だとみなされるのだった。
 
そういう目的もあったため、「寒単爺」役を演じるヤクザは、赤い布で顔を覆い、両目だけを露出するスタイルをとっていた。あとで警察に追われる身となるのを避けるためである。しかし、1986年以降、政府が暴力団追放を強化。「寒単爺」を演じていた「親分」たちが次々に獄中に入れられ、台東の「寒単爺」祭りも一時中止を余儀なくされるということがあった。
 
それから4年後、地元議員の強い働きかけもあり、「寒単爺」祭りが復活した。1990年代に入ってから再開した「寒単爺」祭りは、今度は商売をやっている人々がその担い手となった。商売人たちは10万~20万台湾元(約36万円~72万日本円)という大金をはたいて爆竹を購入し、店先にやってきた「寒単爺」に爆竹を投げつけた。爆竹の量が多ければ多いほど、前年の稼ぎが多いことを意味するため、この祭りはたちまち、過去1年間の台東の景気状況を示すバロメーターとなった。
 
その後、この祭りは交通部観光局(日本の観光庁に相当)が推進する民俗観光イベントの一つに挙げられ、「北天燈、南蜂炮(台湾北部は平渓のランタン飛ばし、南部は台南市塩水の蜂炮祭り)」(※蜂炮とは爆竹やロケット花火を打ち鳴らすこと)と肩を並べる存在となった。2006年、台東県文化局は「寒単爺」祭りの無形文化遺産登録申請を行い、かつての「ヤクザの神様」は、ヤクザの服を脱ぎ捨てて、文化の殿堂入りを果たすこととなった。
 
台東の「元宵節」でもう一つの見どころと言えば、すでに60年以上の歴史を持つ「神明巡礼」だ。日本占領時代の1933年、台東で唯一の、政府によって建てられた官製の廟宇「天后宮」では、その移転・再建を祝うため、媽祖(航海の安全などを守る道教の女神)の巡礼を始めた。戦後の1954年になると、天后宮は国軍に徴用され、負傷した兵士の収容所となった。これにより、媽祖の巡礼を中止せざるを得なくなった。
 
その後、同じ台東にある海山寺が、この「神明巡礼」を引き継ぐことになった。しかし、当時の台湾は「軍を整え、戦いの準備をする」期間にあたり、「巡礼」も軍と国民が共に楽しめるイベントへと改められ、山車(だし、フロート車)によるパレードを行うことになった。
 
しかし、1979年に、「中国共産党のスパイ」として逮捕された呉泰安が、かつて海山寺に占いの店を出していたことが発覚。海山寺もそのとばっちりを受けることになった。海山寺は活動を自粛し、山車によるパレードの主催権を天后宮に返すことになった。
 
再びイベントを主催できるようになった天后宮は、台東県内の廟宇に声をかけて、盛大にこれを行うことになった。また、山車によるパレードは、再び「神明巡礼」に改められた。
 
台東の「寒単爺」祭りも、この「神明巡礼」も60年以上の歴史を持つ。時代によってその様相を変え、当時の台東の社会環境を反映してきた。台東の経済や宗教の歴史にきらびやかな一頁を書き込み、台湾政治の変遷の過程も見守ってきたのである。
 

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