2025/09/03

Taiwan Today

文化・社会

新竹のお茶の歴史を知りたければ羅頼明家族展を見よ

2017/02/03
新竹市の文化局3階の「文化ショーウィンドー」で行なわれている「羅頼明家族と金山面茶葉発展資料展」では同市で茶葉産業が発展した歴史を理解できる。写真は展示されている写真の一部。(新竹市提供、中央社)
台湾北部・新竹市で茶葉が発展した歴史、さらには台湾全体の茶葉産業がいかにして世界で重要な地位を得るようになったかを知りたいならば、台湾北部・新竹市の文化局3階の「文化ショーウィンドー」で行なわれている「羅頼明家族と金山面茶葉発展資料展」を参観するといい。
 
新竹市文化局によると、金山面茶葉は日本占領時代の「新竹州」とその後の「新竹県」時代に作付け面積が最も大きかった産業。そのうち最も有名だった製茶家族が羅頼明氏の一家で、全国に茶の苗を売りさばいたことで、今では各地の茶葉のルーツは新竹とされるようになった。羅一家は新竹市が発展してきた中で重要な地位を占め、また、台湾の茶葉産業の発展に果たした功績は無視できない。
 
羅頼明氏(1863年~1951年)は幼少期から裕福な家族に雇われ、責任感を持って勤勉に働き、倹約して、後に新竹市金山面に移り住んだ。1906年には金山面茶寮頂にあった55ヘクタールの雑木林を借り受け、家族で苦労して開墾、数年後には荒地を茶園に生まれ変わらせた。
 
羅頼明氏の一家は1923年、発動機を用いた製茶工場を設立。育てた優良な茶の苗は三井会社を通じて台湾本島全域に売られ、500万株あまりの苗を5年連続で販売することに成功した。また、羅頼明氏は台湾茶共同販売所協議会の会員も務め、台湾の茶葉産業の発展指導に協力、優れた指導ぶりで日本政府からも3度表彰された。
 
台湾が中華民国に復帰して以降、羅頼明氏の製茶工場は「金山茶荘」と改名して各種のお茶を生産、年間生産量は10万キロあまりに達し、その名声は台湾全土に広がった。
 
羅一家の工場では主に紅茶を製造してチリに販売、ウーロン茶は米国が主な販売先だった。しかし、盧溝橋事変で抗日戦争が始まると輸出は大打撃を受けることに。特に日本が真珠湾攻撃を行なって米国と開戦したことで輸出がほぼ止まる事態となった。ちょうど「成昌株式会社」との土地賃貸契約期間40年が満了する時期だったため再契約はせず、自ら所有する25甲(1甲は0.9699ヘクタール)の茶園での生産に専念することにした。
 
しかし、羅頼明氏一家の25甲の土地と製茶工場は陸軍の新兵第二訓練センター、国立交通大学の光復校区(キャンパス)、中山高速道路など一連の重大建設のため相次いで収用されることに。そして1980年、政府がサイエンスパークを建設するため金山面の土地を収用したことで、羅頼明氏の一家による茶葉産業は過去のものとなった。
 
展示内容は羅頼明氏の家系図、製茶と栽培、茶葉の経営と発展、関連の写真と賞状などで、3月31日まで開催中。毎週月曜日は休館日。
 

ランキング

新着