2026/04/13

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文化・社会

嘉義市の古い写真の人物、清朝の「歳貢」か

2017/09/14
嘉義市が収集した地元の古い写真の中に見られる男性(写真)が、咸豊年間の「嘉義歳貢」とされる陳煕年である可能性があり、初めてその姿が確認されたのではと注目されている。(嘉義市文化局提供、中央社)
台湾中南部・嘉義市の文化局は地元の古い写真「嘉義写真」の収集活動を実施。6回目は今年2月16日から3月31日まで市民からの提供を受け付けた。集まった写真の中に見られる清朝の官服を着た男性は、咸豊年間(1851~1861年)の「嘉義歳貢」とされる陳煕年である可能性が高い。ただ遠い過去の人であり、専門家による鑑定を待つことになる。「歳貢」とは、各省で教育を担当する省庁が地元で学ぶ学生から、決まりに従って優秀で健康な者を選び、礼部(古代中国で儀礼や学事、考試などを司った役所)に登録した学生たちのこと。清朝のはじめには朝廷での試験で合格すると、国の最高学府である国子監で学ぶことができた。康煕26年(1687年)以降は朝廷での試験が取り消され、礼部が各省の儒教の教官として選定した。「歳貢」は国子監で学ぶか、外で教師となるかを選択できた。教師となる者が多かったという。
 
「嘉義写真」をまとめている蔡栄順氏によれば、陳煕年は咸豊11年(1861年)当時、嘉義県で学んで「歳貢」に選ばれた学生で、この写真の人物が陳煕年だった場合は、「嘉義大善人」と呼ばれた陳煕年の姿が初めて確認されたことになるという。写真は嘉義市のコレクター、高基栄氏が提供した「陳飛熊職場自述」に添付されていたもの。陳家は早くに没落したが、陳飛熊氏は陳煕年の孫であるため、写真の人物が陳煕年である可能性はかなり高い。
 
「嘉義大善人」と呼ばれた陳煕年は家系図が明らかになっていないため、その子孫の行方は今も謎。わずかに知られているのは、孫の陳飛熊氏(1919年生まれ)がかつて砂糖工場で働いたり、警察局の消防隊員を務めたりしたこと。1946年には警察となり、1950年には嘉義県における遊民(路上生活者)収容所の管理員に転任した。「陳飛熊職場自述」によれば、彼の祖父である陳煕年(1816~1886)はかつて清朝の官吏を務めた。父親の陳嗣昌は清朝の秀才だった。しかし、陳煕年、陳嗣昌のいずれも陳飛熊氏が幼いころに相次いで亡くなっており、陳飛熊氏は兄、姉と5人で暮らし、兄が養ったという。
 
陳煕年は嘉義の「文彦社」のメンバーで、戴潮春(戴萬生)事件(1862~1867年)の中では義民を率いて嘉義の町を守り、戴潮春の一味を撃破する上で貢献した。このため当時、閩浙総督だった左宗棠、福建の巡撫だった徐宗幹が褒章を上奏、陳煕年は「四品官」に任命された。
 
陳煕年と地元の名士、頼時輝(1819~1884年)はいずれも公益活動に熱心で、私財を投げ打って善行に努めた。戴潮春事件が平定されると、陳煕年氏は「嘉安総局」を立ち上げて復興に協力、合わせて「育嬰堂」の再建、義倉(凶年に備えるための米の貯蔵庫)の建設、道路の整備、貧困者への薬の提供を行ったことから「嘉義大善人」と呼ばれるようになった。陳煕年らは資金を提供して嘉義から「台湾府城」(現在の台南市)までの石畳も敷設。同治3年(1864年)にもち米、黒砂糖、カキの貝殻の粉で建設した「糯米橋(もち米橋)」の遺跡は今も嘉義市宣信街と立仁路の交差点一帯に残っている。また、「牡丹社事件」(1874年)後、陳煕年は台湾南部・屏東県にある恒春鎮の城の修復工事にも参与、寄付をして恒春城の城壁75丈(約250メートル)の修復を行った。
 
「嘉義県志(県史)」には陳煕年氏に関する記載が無く、彼の功績は徐々に忘れられた。また、彼の子孫は陳飛熊氏を除いて、別の場所に移住したか中国大陸に戻ったのかもしれず、さらに清朝末期での混乱、台湾の支配者の交代などもあり、陳煕年は歴史の洪水に飲み込まれてしまった。現在確定できることは、同治6年(1867年)、戴潮春事件平定後、陳煕年と頼時輝は嘉義の城隍廟脇に設けた「育嬰堂」事業を継続し、遺棄された女の嬰児や、親が貧困のため育てられなくなった子どもを引き取り続けたこと。
 
「育嬰堂」は嘉慶年間(1796~1820年)に創設されている。1786年には林爽文事件が発生したことで、嘉義官府(役所)と地元の名士たちが募金にあたり、嘉義城隍廟脇に台湾初の「育嬰堂」を設け、遺棄された嬰児を受け入れた。
 

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