中国大陸の反体制派で、近年は台湾と米国間を行き来して民主に関する研究を行っている余杰さんは、香港の「銅鑼湾書店事件」以降、台湾は中華系の反体制派が書籍を出版できるほぼ唯一の場になったとしている。余杰さんは、「台湾は自由民主のカギであり、暗黒の東アジアの扉をこじ開けられる」と話す。
1973年に中国大陸・四川省成都で生まれた余杰さんのルーツはモンゴル。中国大陸では人権活動と信仰の自由を勝ち取るための活動に積極的に参与した。2012年に米国に亡命、現在は定期的に台湾・米国間で学術訪問を行い、民主化と信仰の自由を研究している。
亡命後、著作は半分を香港で、残り半分を台湾で出版してきたが、2015年に「銅鑼湾書店事件」が起きて以降、すべての著作は台湾で出版することにした。余杰さんは、「仮に台湾がなかったならば、自分の創作活動は大きな危機に陥っただろう」と話している。余杰さんによれば、台湾の社会は全体的に、中国大陸の反体制派に友好的。政権を握る政党と中国大陸との関係から、中華民国政府の反体制派に対する態度にはやや違いがあるかもしれないが、台湾の開放された社会と整った民主制度は、中国大陸の反体制派が基本的に問題なく来台できるようにしているという
余杰さんは、海に囲まれている台湾ではスペイン、オランダ、日本、中国大陸の文化が溶け合って多元的な文化が形成されていると指摘、時には一部の政治家がエスニックグループの対立を利用することがあるかもしれないが、日常生活の上ではそれぞれのエスニックグループがフレンドリーに共存しており、そうした態度は欧米社会に勝ると評価した。そして余杰さんは、「価値と精神面から言えば、台湾こそが『大国』で、『自由民主のカギ』だ」と強調、専制政治や独裁政治の国が多い「暗黒の東アジア」の扉をこじ開けられるのは台湾であるとの考えを示した。余杰さんはその上で、台湾における1日も早い「難民法」制定を期待、中国大陸をはじめとする各地の難民、特に政治的に迫害される人たちを支援するための法的根拠が整えられるよう希望した。
一方、燕鵬さんは1980年代に故郷で、師でもあり友でもある民主活動家と出会ったことで人生が一変した。中共の役人家庭に生まれ、根っからの「中国共産主義青年団」メンバーだった燕鵬さんは民主を追い求める道を歩み出した。2001年、燕鵬さんは友人に協力してインターネット上の「封鎖」を突破、民主の理念を広め、中共を攻撃する文章をウェブサイトと海外のメディアに送ることに成功した。燕鵬さんはこれにより、「『国家』政権転覆扇動罪」に問われ、懲役1年半の判決を受けた。刑期を全うして出所すると、警察が厳重に監視しているにもかかわらず、チンタオ(青島)からアモイ(廈門)へ移動し、さらには船を利用、泳いで台湾の離島・金門にわたり、紆余曲折を経て台湾本島にやってきた。
台湾を選んだ理由について燕鵬さんは、一つは当時パスポートを携帯していなかったためと説明。西洋の国へは入れないため地理的に近い台湾を目指したのだという。そしてもう一つは、自由で民主的な台湾のことをずっと伝え聞いており、あこがれていたから。
しかし、実際に金門にたどり着くと、燕鵬さんが上陸したのが軍事管制区の大膽島だったためその晩直ちに牢に入れられた。そしてさらには軍法の「軍事管制区侵入罪」で起訴され、「死刑もしくは無期懲役」を求刑された。その結果、俗に「靖廬」と称される、内政部(日本の省レベルに相当)移民署新竹収容所(台湾北部・新竹市)に移され、8カ月後、台湾人権促進会の協力によってようやく宜蘭県(同北東部)で暮らせるようになった。
現在の与党、民進党籍の立法委員(国会議員)が間に入って調整したことで、燕鵬さんは行政院(内閣)大陸委員会による生活補助を毎月5,000台湾元(現在のレートで約1万8,500日本円)受け取れるようになった。そして2年後には2万台湾元(現在のレートで約7万4,200日本円)に増額。燕鵬さんは、中華民国政府の支援に大変感謝している。
燕鵬さんは、台湾での生活で記憶があいまいな時期もあるが、いくつかの日は絶対に忘れないと話す。それは、2010年6月、神学学士になった日。また5年後、道学修士と神学修士の二つの修士号を取得した日。そして2014年8月、牧師として教えを伝え始めた日。中国大陸で洗礼を受けたキリスト教徒の燕鵬さんは台湾でも教会の活動に参加。あるきっかけで、中和双和崇真堂(台湾北部・新北市)こそが自分の居場所だと感じ、教会と教会の友人たちが激励する中、神学校に合格、8年間の苦学を経て伝道師になった。
台湾にやってきて10年が経ち、燕鵬さんはようやく長期居留権を取得、12年目には中華民国の国民身分証を手にした。そして13年目にはオーストラリアで暮らす娘夫婦の元に身を寄せ、中国大陸から家族として妻も呼び寄せた。燕鵬さんは、「台湾では妻に身分を与えられない。だから娘のところに来て居留申請するしかなかった」と説明する。
燕鵬さんは、「歩んできた道なので、後悔するかしないかといった問題は存在しない」と話す。燕鵬さんは、死刑の恐怖に向き合うことになった金門において無償で弁護を引き受けた陳為祥氏と顧立雄氏、台湾本島にやってきた自分に補助金が支給されるよう努力した立法委員の李昆沢氏、自分を受け入れてくれた教会、最も落ちぶれていた時に助けてくれた友人たちに触れ、「台湾ではプラスの面がマイナスの面より多かった」と振り返る。