2026/05/27

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文化・社会

詩人の余光中氏が死去、中華圏の教科書に多く採用

2017/12/15
「右手で詩を書き、左手で文章を書く」と比喩され、そのたぐいまれな才能が称えられた詩人兼作家の余光中氏(写真)が14日、高雄の病院で亡くなった。(中央社)
「右手で詩を書き、左手で文章を書く」と比喩され、そのたぐいまれな才能が称えられた詩人兼作家の余光中氏が14日、高雄の病院で亡くなった。
 
余氏は中国大陸・福建省泉州市永春県に本籍を置く。1928年に中国大陸・南京で生まれた。1989年に台湾の「国家文芸奨」を、2014年に第34回「行政院文化奨」を受賞している。「行政院文化奨」を受賞した際には、「中国の文字を、変化に富んださまざまな表現の中で、大きな楽隊に編成させる。作家が持つペンは、交響楽団の指揮者が持つタクトのように、一振りで文字を自由自在に操るものだ」とのコメントを残した。
 
戦争による混乱で余氏の生活は困窮を極めたが、そんな状況でも余氏は文壇で徐々に頭角を現した。1949年、中国国民党と中国共産党による国共内戦を避けるため、アモイの大学に進学。翌年5月には台湾へ渡ったが、わずか10日間ほどで詩を6~7編、評論を7編、翻訳文を2編完成させるなど、すでに非凡な才能を見せていた。
 
余氏は詩、散文、評論、翻訳などの分野で広く活躍し、自ら「創作の四次元空間」にいると表現したことがある。また、『郷愁』、『我的四個仮想敵』、『聴聴那冷雨』など、作品の多くが台湾だけでなく中国大陸や香港の国語の教科書に採用されている。いくつかの詩は楊弦さん、李泰祥さん(故人)、羅大佑さんなど台湾のミュージシャンによってメロディが付けられ、歌い継がれている。
 
中華圏の文壇で発表した著作は100編近くに上り、まさに現代中国語文学を代表する作家の一人だ。台湾の現代文学に深い影響を与えただけでなく、「両岸三地(台湾、中国大陸、香港を指す)」の華人世界に与えた影響も大きい。
 
当時台湾にあった米国政府の組織、米国新聞処(United States Information Service)は1961年、余氏が英訳した『中国新詩選』を出版した。これは、台湾で初めて外国語に翻訳された現代詩集となった。
 
評論家の張瑞芬さんはかつて「台湾のモダニズム時代の散文と言えば、余光中氏と彼が書いた散文集『逍遥遊』がその代表だろう」と語ったことがある。これは、1960年代の台湾モダニズム文学における余氏の散文の重要性を示すものだ。
 
白話詩(はくわし)の分野において、余氏は芸術至上主義を貫いた。散文においては、教育の普及と大衆化によって、文学は芸術性を兼ね備える機会があると説いた。余氏は、中国の五四運動(1919年5月4日)以降の散文について、口語を取り入れた散文と大衆化を同一視し、芸術化された散文を現代散文と称した。つまり、こうした散文は、現代人の日常生活を表現した現代的な創作手法であると見なしたのである。
 
余氏は近年、携帯電話端末のショートメッセージ(SMS)機能を使った文章にも高い関心を寄せていた。通信キャリア大手の台湾大哥大(Taiwan Mobile)は10年以上前から、優れたショートメッセージを選ぶ「myfone行動創作奨(モバイル創作賞)」を実施しているが、過去8回にわたって余氏に審査員を依頼している。余氏は審査員を務めるかたわら、数々に優れた「手本」を残してきた。
 
例えば2011年の「家書組(家族への手紙部門)」で示した「手本」は「有一句話対至親反而不説,或者説得不夠:『謝謝你。』乗早説吧,多説幾次。愛,該是現款,不是支票(家族にはかえって言うことがない、あるいは言い足りない言葉がある。それは「ありがとう」だ。早いうちに言いなさい。何度も言いなさい。愛、それは現金であって小切手ではない)」。第7回「myfone行動創作奨」の「情書組(ラブレター部門)」では「不要再買了。LV,只是Love的一半(もうLV(ルイ・ヴィトン)は買うな。LOVEの半分しかないのだから)」という、短いながらもユーモアのある「手本」を提示した。
 
ほかにも代表的な作品には以下のようなものがある。
 
「母親,感謝你送我的這一副牙歯,一直耐用至今,否則這世界我怎麼消化得了」
(お母さん、丈夫な歯をプレゼントしてくれてありがとう。いまでもよく使えています。これがなければ世界を噛みしめることができませんでした)」
 
「粉絲只合成群,知音一定独立。粉絲不嫌其多,知音不嫌其少。粉絲是虚栄的消耗品,知音是自信的救済品。知音,是未来預付的掌声」
(ファンは集合体。知己は独立体。ファンは多くて困ることはなく、知己は少なくて困ることはない。ファンは虚栄の消耗品。知己は自信の救済品。知己は、未来のための声援だ)
 
「私徳猶如内衣,髒不髒自己明白。声誉猶如外套,美不美別人評定」
(モラルは下着のようなもの。汚れていないかどうかは自分で判断できる。名声は外套のようなもの。美しいかどうかは他人が評価する)
 
「長痛不如短痛 短痛不如有點癢 長談不如短訊 短訊不如鈴声 這麼緊急的暗号 是誰啊心血来潮」
(痛みは長いより短いほうがいい 短い痛みより少しくすぐったいほうがいい 長い話よりも短いメッセージのほうがいい 短いメッセージよりも電話が鳴って欲しい そんな緊急の暗号 電話をかけてきたのは誰だろう)
 
余氏のこうした作品は、読み手が何度も読み返して味わえるものである。
 
余氏の足跡は国立台東大学(台湾南東部・台東県)でも見つけることができる。台東大学は2009年、「後山初陽芸術節」を開催した際、余氏を招いて講演を行った。台東大学はこの際、余氏が書いた「台東」と題する詩碑の除幕式を行っている。
 
余氏はこの詩の中で、台東について「城比台北是矮一点 天比台北卻高一点(建物は台北よりやや低いが、空は台北よりもやや高い)」、「人比西岸是稀少一点 山比西岸卻密得多(台湾の西海岸に比べて人はやや少ないが、西海岸に比べて山の密度は高い)」、「無論地球怎麼転 台東永遠在前面(地球がどれだけ回ろうとも、台東は永遠に先頭にある)」と読んだ。
 
この詩は台東の人々の誇りを呼び覚まし、現在でも台東にある多くの宿泊施設や観光業者がこの詩を使って、台東観光をアピールしている。
 
余氏逝去のニュースは中国大陸にも伝えられ、インターネットでは多くの人々が哀悼の意を示した。特に余氏の代表作『郷愁』を懐かしむ声が大きかった。『郷愁』は余氏が21歳のときに書いたもの。余氏は9歳のときに戦争の混乱を避けて故郷を離れ、重慶に移り住み、中学時代は四川で過ごした。その後、生まれ故郷の南京に戻り、金陵大学外文系(=外国語学部)に入学したが、戦火から逃れるために台湾へ渡った。
 
『郷愁』で余氏は人生の様々な段階における郷愁の気持ちを「一枚小小的郵票、一張窄窄的船票、一方矮矮的墳墓、一湾浅浅的海峡」(一枚の小さな切手、一枚の長方形の乗船券、一つの背の低い墳墓、一つの浅い海峡)」と表現した。
 
余氏は2010年、四川省成都市にある武侯祠博物館で演説を行った際、代表作である『郷愁』に書き上げるのにかかった時間は20分ほどだったと明らかにしたことがある。余氏は「この20分間に至るまでに、私にはすでに20数年分の郷愁の念が蓄積していた」と説明した。
 
中国大陸で余氏の名前が知られるようになったのは、四川省出身の詩人、流沙河氏の紹介がきっかけだった。流沙河氏は詩の専門誌『星星』を立ち上げた編集者の一人で、余氏の幼少時代の友人だった。1980年代、中国大陸では詩歌の全盛期で、『星星』は月間発行量が20万部に達していた。流沙河氏は1982年に郷愁をテーマにした余氏の現代詩を紹介。その10年後となる1992年、余氏が戦後初めて中国大陸を訪れたときには、余氏は中国大陸で名の知れた詩人となっていた。今年8月、中国大陸の「全国詩歌報刊網路聯盟」などの組織が設置した「百年詩歌貢献奨」で、余氏は「創作成就奨」受賞者5名のうちの1人に選ばれている。
 
香港でも、余氏の名前はよく知られている。余氏が書いた詩『郷愁四韻』が、高校の国語の教科書に採用されていたことがあるからだ。香港でこの詩は、大学入学前の必読書とされている。また、余氏の散文『記憶像鉄軌一様長(記憶は鉄道の線路のように長く続く)』は、いまでも香港の中学の国語の教師が、指定図書として生徒たちに読ませている。
 
余氏と香港の関係はこれだけにとどまらない。余氏は1974年から1985年まで、香港中文大学中国語言及文学系(=中国語及び中国文学科)で教授を務めていた。このため、現在香港の小中学校で国語を教えている教師の中には、余氏の指導を受けた人も少なくない。

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