1960年代、台湾経済が米国からの援助を受ける中、台湾南部の高雄市に輸出加工区が設けられると女工たちは台湾経済の発展を支える主役となった。1970年代から1980年代へと、苦労に耐えて労働に励む女工たちは引っ張りだこだった。1970年代、政府が「客庁即工廠」(客間イコール作業場)政策を推進したことで、多くの家庭で受託生産が始まった。また、国際的なスポーツ用品メーカーのシューズ受託生産で知られ、台湾中部・彰化県に本部を置く宝成工業株式会社(Pou Chen Corporation)などは当時、早朝に村々を回って女工を車に乗せて工場へ運び、夕方には送り返すというスタイルをとったという。
ただ、故郷を離れ、工場に住み込んで働く女工はさらに多かった。加工貿易は台湾に奇跡的な経済成長をもたらしたが、その成長を支えたのはこうした血と涙を流して働いた女工たちだった。当時の工場では、好きなように働かせることができ、罵ろうが構わない女工たちを好んで雇った。1976年、内政部(日本の省レベル)、教育部(日本の文科省に類似)、経済部(日本の経産省に相当)、行政院(内閣)青年輔導委員会(現在の教育部青年発展署)などは、卒業を控えた女子中学生が就職を希望するなら2カ月前倒しの卒業を可能にする方法まで定めたという。
6月に公共電視(PTS、公共テレビ)で放送されたテレビドラマ、『奇跡的女児(The Coming Through)』は作家、楊青矗さんの小説『工廠女児圏』が原作。蔡英文総統も自身のフェイスブックで推薦する話題作だった。「用阮的青春、拚台湾的経済。」(わたしたちの青春で台湾経済を発展させる。)というキャッチフレーズは当時の女工たちの境遇を一言で表現している。そしてこのドラマの中に、視聴者の多くは母親の姿、あるいは当時の自分の姿を目にしたのである。同ドラマの鄭文堂監督は、「たくさんの人の母親があんな様子だった。87歳になる私の母もそうだ。あの時代に生き、工場に住み込んでいた女工たち。たくさんの人の母親は女工だった」と話す。鄭監督は小さいころ、縫製工場で糸を切って母親を手伝った。時には山のように積み上げられた衣服の中で居眠りした。眠気に見舞われながら手伝っていた時に見た光景は綿ばかり。けたたましいミシンの音も鳴っていた。
原作者、楊青矗さんの小説は常にヒューマニズムと思いやりの視野を持つ。小説『工廠女児圏』ではさらに、台湾の「経済奇跡」を支えた工場労働者や女工たちが体験した生活上の苦難と夢に直接焦点を当てた。『工廠女児圏』をドラマ化したことは鄭監督にとって「自然なこと」だった。鄭監督は、「自分はその時代を見てきた。工場での肉体労働で家族を養ったり、仕送りをしたり。それに様々な人生もあった。この小説が描いているのはまさにそのことだ」と話す。母親の時代、女性は多くのことを背負っていた。子どもも多かった。そんな中で家計を支えながらよりよい暮らしを実現した。鄭監督は、「とても根性があった。自分が撮りたかったのはそうした意志の力だった」という。
『奇跡的女児』が描くのは1970年代の台湾。社会全体が「奇跡的な経済成長」の輝きに包まれていた。しかし、そんな中、女性労働者は繁栄の陰、悲しく惨めな暗がりに身をひそめていたのである。ドラマでは、残業と過労、過重労働、労働保険給付、職場でのセクシャルハラスメントなど、多くの労働問題も描かれる。こうした描写は今から40年前に出版された『工廠女児圏』を元にしたものだが、現代に通じる問題でもあり、賃金の男女格差やセクハラなどは今もニュースでしばしば報じられる。つまりこのドラマは、「経済奇跡」の陰で台湾の「生産高」を支えた女工たちに捧げるものなのである。鄭文堂監督は、当時女工や女性作業員だった人たちと子女が一緒に見て、ドラマで描かれる様々な感情を共有してほしいと希望している。また、当時の台湾の工場を振り返ることで、異なる世代間により多くの理解と交流の機会をもたらせることを願っている。