2026/04/23

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文化・社会

人生が台湾の文学史そのもの、台湾文学大家の鍾肇政氏が死去

2020/05/18
客家人の作家、鍾肇政氏(写真)が16日に95歳で死去。多くの作品を世に送り出したばかりでなく、「大河小説」の開祖としても知られた。その人生は台湾文学史そのものだった。(文化部提供・林柏樑氏撮影、中央社)
台湾第二のエスニックグループ、客家人の作家、鍾肇政氏が16日夜7時すぎ、桃園市(台湾北部)龍潭区の自宅で死去した。95歳だった。鍾肇政氏は旺盛な創作意欲で非常に多くの作品を世に送り出したばかりでなく、「大河小説」の開祖としても知られ、「台湾文学の母」と称された。その一生はまさに台湾文学史そのものだったと言える。
 
鍾肇政氏は1925年、桃園市龍潭区に生まれた。10人いた子どものうち6番目で1人息子だった。日本占領時代に当時の淡水中学(台湾北部・新北市)、彰化青年師範学校(同中部・彰化県)を卒業、その後日本から徴用されて入隊した。台湾の「光復」(祖国復帰)後、国立台湾大学(台湾北部・台北市)中国文学科で学んだが耳を患って休学、その後は小学校の教職について40年間働いた。
 
第二次世界大戦が終わると、鍾肇政氏は中国語を学ぼうと一念発起、「百家姓」や「三字経」(いずれも中国の子どもが学ぶ初学者用学習書)から始め、知らない漢字があればただちに「康熙字典」(中国の漢字字典)を調べた。そして中国の古典文学の名著や「五四運動」(1919年に北京から広がった、反帝国主義を訴える学生運動)以降の新文学作品まで目を通すようになった。作家としての鍾肇政氏は当初、日本語で書いた文章を中国語に翻訳して数点の作品を残した。しかし、徐々に直接中国語で考えて執筆することが身に付き、数年の執筆活動で経験を積むと、多くの長編小説を書き上げるようになった。
 
1950年に始めた投稿作品は主に小説とその翻訳で、1956年には最初の文集を発表。1957年には台湾における「本土作家」(土着の作家)の精神にとって「砦」とされた刊行物「交友通訊」を発刊し、戦後新たに現れた「本土作家」を集結させた。これら作家たちは互いに励まし合いながら台湾文学の創作に共に取り組むようになった。
 
鍾肇政氏は1960年に長編『魯冰花』を発表すると長編小説の時代に入り、続けざまに22点の長編と9点の短編を発表した。戦後、最も多作な「本土小説家」だったと言える。1956年から1964年までの間に「濁流三部曲」(濁流三部作)を発表し、台湾における「大河小説」の道を切り開いた。
 
その後1967年からは10年かけて「台湾人三部曲」(台湾人三部作)を完成させた。この作品は台湾が日本に統治された50年間の歴史を背景に書かれた叙事詩であり「抵抗」がテーマ。濃厚な人道主義の精神で、日本占領時代下の台湾社会における各階層の生活の実情を記録している。
 
新聞社で編集長を務めていたときには、仲間としての態度で後進を引き立て、台湾の作家たちを励ますのに余念が無かった。「台湾文学の母」と呼ばれるようになったのはこのためである。戦後第二世代、第三世代の作家たちには鍾肇政氏に助けられたことのある人が少なくない。また、鍾氏は台湾における客家人としてのアイデンティティを訴えていく運動にも長期にわたって力を注ぎ、客家人意識の高まりに大きな功績を残した。
 
鍾肇政氏は国家文藝奨(賞)、台美文学奨(賞)、呉三連文学奨(賞)を受賞。2000年には総統府資政(上級顧問)として招かれるなど数々の栄誉に浴した。2007年には客家貢献終身成就奨(客家生涯特別貢献賞)を受けている。そして鍾氏は、台湾文学の発展が今後ますます幅広くなり、客家語文化の伝承がしっかり進んでいくことへの願いを度々語っていた。
 
これまでの作品は計2,000万字以上。しかし鍾肇政氏は多作だったばかりではない。その創作精神と後進を育てようとする熱意が台湾文学発展の道を切り開いたのであり、鍾氏の一生はまさに台湾文学史そのものを証明しているのである。
 
 

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