「纏足(てんそく)」は、華人社会で数百年にわたり続いた身体文化の現象であり、男性が支配的で特権的な地位を占める社会システムにおいて、女性の身体に対する支配と美に対する規範を象徴するものであった。日本統治時代、日本人はこれを「悪習」と見なして強制的に取り締まり、「纏足」廃止運動を推進した。これにより、女性たちは次第に身体的束縛から解放され、近代化とジェンダー意識の変化の時代を迎えることとなった。
国家撮影文化中心(以下、国家撮影文化センターとする)は、国立台湾師範大学名誉教授の呉文星氏に委託し、同センターが所蔵する25点の写真作品をもとに、オンライン写真展「女性の纏足と日本統治時代の纏足廃止運動」を企画した。この写真展は「伝統的な纏足をした女性」と「日本統治時代の纏足廃止運動」の2つをサブテーマとし、かつて女性たちを束縛した「纏足」の歴史を振り返り、台湾が近代社会へと進む中で生まれた「纏足」廃止運動」と、それに伴う考え方や価値観の変化などについて理解を深められるようになっている。
伝統的な纏足をした女性
台湾では17世紀、明の遺臣・鄭成功がオランダの勢力を駆逐し、台湾南部を拠点に鄭氏政権を確立して以来、中国大陸の福建や広東から多くの華人が海を渡ってやってきた。こうした移民の中で最も多かったのは福建省の漳州や泉州(いわゆる漳泉地方)の出身者だった。女性の足を縛って小さく見せる「纏足」の風習は五代十国の「南唐」の時代には、すでに漳泉地方に広まっていた。この地方では、奴婢や乞食、貧困層を除くほとんどの女性が「纏足」を行っていた。19世紀末、清朝統治時代の台湾では、およそ80万人以上の女性が「纏足」を行っていたという。一方、広東出身の客家(ハッカ)の女性たちは、女性が家事や農作業を担う伝統があったため、あまり「纏足」を行わなかった。
日本統治時代の纏足廃止運動
1895年、台湾総督府は台湾での統治を始めて間もなく『台湾開化良箴』を発刊し、台湾の人々の間に広まっていた「纏足」、「辮髪」、「アヘン吸飲」などを、衛生や健康を害する「悪習」とみなし、段階的に禁止する措置を講じた。具体的には学校教育や新聞・雑誌などを通じて、「纏足」や「辮髪」をやめることが奨励された。1900年頃から台北では「纏足廃止」を提唱する団体が現れ、その風潮はやがて台湾全域に広がった。1910年代中期以降、総督府は保甲制度を活用して「纏足」や「辮髪」の廃止運動を本格的に推進。その結果、約48万人以上の女性が「纏足」をやめた。こうした変化は、台湾の人々の思想や価値観、生活習慣にも影響を与え、新しい服飾文化や近代的風潮が生まれ、ひいては女性の社会参加と経済発展の促進にもつながった。
「纏足」の風習を排除したことと新式の学校教育の普及は、台湾社会において女性たちを身体的あるいは道徳的束縛から解き放つきっかけとなった。こうして1921年10月17日、林献堂、蒋渭水、蔡培火、頼和など当時の若者らが台北・大稲埕の静修女学校で「台湾文化協会」を設立し、台湾文化の啓蒙運動を推進した。現在台湾では10月17日を「台湾文化の日」として記念している。
オンライン写真展URL:
https://ncpi.ntmofa.gov.tw/News_Content_OnlineExhibitionLit.aspx?n=8008&s=244356