2024/06/28

Taiwan Today

政治

朝鮮戦争に参加した「老兵」、両腕の入れ墨からにじむ時代のやるせなさ

2018/04/27
中華民国軍の兵士ながら中国大陸から朝鮮戦争に参戦、捕虜になってから台湾にわたるという数奇な運命をたどった張文業さんの両腕には、「自由の鳥」と「粛清共匪」の文字が刻まれている。(中央社)
朝鮮戦争は1950年に勃発し、1953年に休戦協定を結んだことで現在は「休戦状態」にある。27日には板門店の韓国側施設、「平和の家」で韓国と北朝鮮の首脳会談が行われた。南北の首脳による直接会談は1953年以来3度目である。
 
台湾において「栄誉国民(略称:栄民)」と呼ばれる人については、中国大陸で中共と内戦を繰り広げていた国民政府と共に、1949年に台湾に移ってきた兵士たちの物語が広く知られている。その後、台湾で年老いた元兵士たちは「老兵」と呼ばれるようになった。しかし実は、1950年に朝鮮戦争が始まってから台湾にやってきた兵士たちも同じく「栄民」であり、こうした「老兵」たちには別の物語が存在する。
 
朝鮮戦争が起きると、中国大陸と朝鮮(北朝鮮)、ソ連(当時)が手を結んだことで、20歳前後の中国大陸の若者が大勢戦場に送り込まれた。戦いの中で、韓国と米国、イギリスなどによる国際連合軍の捕虜となった若者たちの一部は故郷を離れ、その後台湾に移り住むことになった。
 
87歳の張文業さんは陸軍軍官学校を卒業、国共内戦では中華民国軍と共に離島の金門に渡って防戦に努めたが、その後再び中国大陸に派兵された。そこで意外にも部隊が中共側に寝返ったことで、中国大陸からの朝鮮戦争参戦を強いられた。張さんは、「小銃で国際連合軍の大砲に対抗せよという。そこには人海戦術しかない。大砲のえじきになるだけだ」と興奮気味に話す。
 
鴨緑江を越えると爆撃機による攻撃をかわすため、張さんらが参加した「中国人民志願軍」は夜に行軍した。昼間は寝ることになるが、雪が降るなど北朝鮮の劣悪な天候に加えて「志願軍」の装備は大変劣っていたため、国際連合軍の攻撃を待つまでもなく、多くの兵士が行軍過程で命を落とし、亡骸を見つけることさえできなくなったという。
 
最終的に食糧も弾薬も尽き果てた張さんは三岔口(東寧)で国際連合軍の捕虜となり、釜山に送られた。収容所では捕虜たちがけんかをし、死人が出ることもしばしばだったが国際連合軍はそれに介入しなかった。張さんは生き延びるため反共陣営を選択、右腕に「自由の鳥」のシンボルを入れ墨し、左腕には「粛清共匪(共産党を粛清する)」と彫り込んだ。2年後に釈放されると台湾を渡航先として選んだ。自由を求めたからであり、中国大陸に戻って追放されたり、処刑されたりすることを恐れたのである。
 
1987年、台湾海峡両岸では家族や親戚を訪ねるための里帰りが認められた。張文業さんは航空チケットを買って中国大陸を訪れ、90歳になった母親と再会することが出来た。張さんは末っ子。母親は張さんと再会すると、最後の願いがかなえられたかのようにまもなくこの世を去った。
 
国軍退除役官兵輔導委員会(国軍退役軍人補助指導委員会)の統計によると、当時捕虜となった「中国人民志願軍」の兵士のうち、1万4,715人が台湾にやってきた。台湾に到着したこれらの人たちには「台湾を守る」か「台湾を建設する」かの選択が可能だった。張さんは「建設」を選び、ブルドーザーを運転して石門ダムの建設に携わった。その後は台湾省公路局の長距離バス「金馬号」の運転手を務め、最後はタクシーの運転手となった。
 
朝鮮戦争で戦った「老兵」は現在84人。いずれも台湾北部・新北市三峡区近郊の白鶏路にある「栄誉国民の家」で、時には歌を歌ったり、散策したり、おしゃべりしたりしながら暮らしている。
 
 

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