2024/06/23

Taiwan Today

政治

台湾のテレビの歴史に立ち会った傅達仁さん、中継での巧みな語録を残す

2018/06/08
バスケットボールの元選手で、有名なスポーツアナウンサーでもあった傅達仁さん(写真)はすい臓がんに苦しみ、7日(台湾時間)にスイスで安楽死。専門知識と話術で台湾におけるスポーツの発展を後押しした。(中央社)
85歳の傅達仁さんはスポーツ界とテレビ業界で縦横無尽に活躍してきた。バスケットボールではナショナルチームの選手やコーチを務め、台湾で最も有名なスポーツアナウンサーの1人にもなった。そしてその命が尽きようとした時、安楽死という道を選択し、その輝かしい人生に再び伝説的な1ページを加えたのである。
 
傅達仁さんは1933年に中国大陸の山東省で生まれた。母親は傅さんを生むと同時に命を落とし、少将だった父親の傅忠貴氏は抗日戦争で戦死。傅さんは4歳で身寄りを失くしたのである。14歳となった傅達仁さんは学校が移動するのに伴い中国大陸を転々とした末、台湾に渡り、現在の国立台湾師範大学付属高級中学国中部(国立台湾師範大学付属高校中等科=台湾北部・台北市)に入学。背が高かった彼はバスケットボールが得意だったため、大学時代には「民生バスケットボールチーム」の海外試合に助っ人として参加、その後は「国光バスケットボールチーム」に合格し、正式にナショナルチームの一員となった。27歳の時にコーチに転身、彼が率いた「裕隆」、「飛駝」、「台湾銀行」はいずれも全国大会で優勝するという見事な指導力を発揮した。
 
28歳の時、内政部警政署警察廣播電台(警察ラジオ放送局)でアナウンサーを務めていた傅達仁さんはマレーシアのナショナルチームの監督に選ばれ、彼が率いたチームはバスケットボールのアジア選手権で中華民国(台湾)を初めて撃破。このことは大きな話題を呼び、傅達仁さんは「常勝監督」と呼ばれるようになった。
 
傅達仁さんは台湾電視事業株式会社(台湾テレビ=TTV)に入ると、スポーツとバスケットボールの専門知識を用いて試合の中継を行った他、1972年のミュンヘンオリンピックなど、オリンピック7大会を含む重要な国際スポーツ大会での取材と放送も行った。
 
そして視聴者に最も人気だったのは、傅達仁さんが中継の中で、身近な言葉でわかりやすく解説したこと。生活用語を多く借用して生み出した名調子の数々である。具が何も入っていない汁そばである「陽春麺」から、塁上に走者がいない状況での本塁打(ソロホームラン)を「陽春全塁打」と形容。「壊壊壊、連三壊(ボール、ボール、ボール、3球連続ボール)」や「蓋火鍋」(バスケットボールで相手のシュートを上からたたき落とすブロックショットを、鍋に蓋をするのに例えた)、「騎馬射箭」(バスケットボールのランニングシュート。オーバーハンドのもので、現在ではフローターシュートなども指す。馬に乗って移動しながら矢を射ることに例えた)などは今も使われる代表的な言い方となっており、スポーツニュースに新たなスタイルをもたらした。傅達仁さんはスポーツを人々の生活に深く根付かせ、台湾におけるスポーツ界の発展を大いに後押ししたのである。
 
傅達仁さんはまた、様々な番組で司会を務め、台湾電視のバラエティ番組、『大家楽』はゴールデンベル賞(金鐘奨)で優良バラエティ番組賞を受賞。ラジオ放送とテレビ界で縦横無尽に活躍して4、50年、傅達仁さんは白黒からカラーへの移り変わりといった台湾のテレビの歴史に立ち会ってきたのである。
 
傅達仁さんは晩年、病苦を訴え、特にすい臓がんの痛みによる苦しみに耐えかねて安楽死を決意した。しかし台湾では安楽死がまだ法的に認められていない。傅さんは蔡英文総統に宛てた手紙で、安楽死の合法化を訴えると同時に、安楽死の機会を海外に求めた。昨年末にはスイスで安楽死を執行する予定だったが、息子の結婚などで延期。傅さんは、「神様が自分に延長戦を課した」と話したが、やはり安楽死の決意は変わらなかった。傅達仁さんは、「どれだけ生きられるのか。それを決める権利は神様が握っているが、どんな方式で死ぬかを決める権利は当事者の手の中にある」として、6月7日(台湾時間)、安楽死によってこの世に別れを告げたのである。
 
 

ランキング

新着