2024/10/05

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地震の「日記」綴る郭鎧紋さん、台湾における地震エネルギー放出の謎を解く

2019/09/20
今月21日で1999年の「921大地震」から20年。当時交通部中央気象局の地震観測報告センター主任だった郭鎧紋さん(写真上)は、ずっと台湾における地震の「日記」をつけてきたと語る。下の写真は震源を指し示す呉慶餘さん。(中央社)
郭鎧紋さんは地震の観測と報告業務に従事して30年。そのうち19年間は交通部中央気象局(日本の気象庁に相当)の地震測報中心(地震観測報告センター)で主任を務めた。2016年8月に定年退職して現在は自分のオフィスを開いている。そこには「921大地震」の震源が標示された大きな台湾の地図が掛けられている。
 
台湾では1999年9月21日午前1時47分、台湾中部・南投県の集集鎮を震源としたマグニチュード7.3の地震が発生した。5万棟以上の家屋が倒壊。犠牲者2,500人近くという記録的な災害だった。台湾では「921大地震」と呼ぶ。
 
中央気象局の統計では、「921大地震」の余震は3カ月間で5万回あまり。郭鎧紋さんによれば、余震の計算は大変複雑で、時には1分間に2、3回起きることもあるなど、その発生回数の多さから迅速な解読は不可能。「余震5万回あまり」は、地震観測報告センターで10年以上のキャリアを持つベテランスタッフが5年間費やして整理したものだという。これら地震観測報告センターのスタッフに言わせれば、全員が台湾の地震に関する日記をつけているようなもの。地震一つひとつを順番どおり記録しなければならないほか、そのデータバンクについても責任を負い、未来の人たちが、台湾で100年に1度とされる大地震の背景について詳細に知ることが出来るようにする義務がある。
 
「921大地震」はマグニチュード7.3。原子爆弾46個分の威力だったという。郭鎧紋さんはその後、台湾で発生した地震の記録に基づき、地震エネルギー放出に関する論理を導き出した。それによると、マグニチュード6.4の地震は原子爆弾1個分の威力で、台湾では1年に起きる地震を合計して、原子爆弾8個分のエネルギーが放出されるべきなのだという。しかし、「921大地震」が起きるまでは原子爆弾200個から300個分のエネルギーが放出されておらず、エネルギーが蓄積されていた。「921大地震」で放出されたのは本震と余震を合わせて原子爆弾100個あまりに相当するエネルギーで、その放出が完全に終わったのは2016年だという。郭さんは2017年に地震観測報告センターが発表した地震レポートを元に、台湾の地中に蓄積し、放出されていないエネルギーは原子爆弾約16個分と推定しており、毎年いくらかのエネルギーが放出されていれば、巨大地震は心配せずともよいと話している。
 
「921大地震」がマグニチュード7.3に達していることを最初に知ったのは7年前に定年退職した呉慶餘さん。呉さんは地震観測報告センターで26年間勤務した。「921大地震」が起きた時はちょうど夜勤で、呉さんは普段どおり地震観測報告センターの機械室で勤務中だった。突然の停電から2秒か3秒後に、中央気象局予備電力システムが起動して停電から復旧、続いて当時使用していたアナログの地震記録計の針がけたたましく鳴る音を聞いた。あわててデジタルの地震記録計に飛びついた呉さんはまず、震源の位置を判断しなければならなかった。台湾中部の記録は明らかに針が振り切れた状態で、震源は中部の県・市だと考えられた。震源の目安を決めると、呉さんは他のコンピューターにダッシュして各地の地震測定設備がフィードバックしてきた速報を確認、震源は南投県だと分かった。マグニチュード7.1(その後、7.3に修正)という数値に呉さんはびっくり。続いて台湾中部・台中市の震度が6、北部の新竹県でも震度5だと知ると頭が混乱し始めたという。
 
台中市と新竹県の間には約70キロから80キロメートルの距離がある。通常の地震ならば、震度は台中市から新竹県に届くまでに明らかに下がる。しかし「921大地震」はそうではなかった。呉さんは当時、間違いなく巨大な地震であり、マグニチュード7を超えると感じた。頭にあったのは、一刻も早く地震レポートを書き上げ、政府上層部と災害救助の担当部署に送ることだけだった。地震後、多くの人が当時の揺れの大きさなどを語り合ったが呉さんは全く覚えていない。緊張しながら地震記録計、コンピューター、ファクスの間を何度も往復するだけで、揺れの激しさを気にすることさえ出来なかったのである。
 
 

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