2024/05/03

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地上勤務で空軍支えた英雄、劉善栄さんが亡くなる

2018/08/14
空軍の「黒猫中隊」を地上で支えた整備士の劉善栄さんが7月30日、97歳で亡くなった。写真は告別式の様子。(中央社)
中華民国空軍は抗日戦争初期の1937年8月14日、日本の陸軍航空隊と初めて交戦して勝利を収めた。これを「814空戦」と呼び、台湾では現在でも8月14日を「空軍節(空軍の日)」と定めている。
 
空軍の「黒猫中隊」(1961年~1974年)といえば、米国内で飛行訓練を受けたパイロットたちが、U-2偵察機を操縦して中国大陸領空内に侵入し、監視飛行を行うという危険な任務を担う部隊だった。そんな危険な任務を担う「黒猫中隊」を地上で支えた元機付長、劉善栄さんが7月30日に亡くなった。97歳だった。
 
当初、残された遺族たちは身内だけで簡単な葬儀を済ませるつもりで、訃報を出すのを控えていた。しかし、劉さんが亡くなったという知らせは瞬く間に空軍関係者に伝わった。桃園殯儀館(台湾北部・桃園市)で開催された劉さんの葬儀・告別式には、100人を超える空軍関係者が駆けつけた。かつて国防部(日本の防衛省に相当)の部長(大臣)を務めた李天羽氏、副部長(副大臣)を務めた霍守業氏、現職の空軍司令である張哲平氏らまでもが弔問に訪れた。蔡英文総統からも「旌忠状」(過去に勲章や褒章を得たことがある元軍人が亡くなったときに贈られるもの)が発行され、遺族を大いに驚かせた。
 
「空軍から英雄が出るとすれば、その半分の功労は地上勤務者にある」と言われる。「黒猫中隊」の機付長であった劉さんも、その専門知識と謙虚な態度から広く尊敬を集めていた。この地上勤務の英雄が亡くなったとき、その柩には中華民国国旗が掛けられた。その活躍は、永遠の称賛を受けることになった。
 
劉さんは1922年、中国大陸で生まれた。漢陽兵工廠にいた17歳のとき、湖南省芷江にあった「中華民国航空委員会第二飛機修理廠」の「機械士」の試験に合格し、採用された。これが、その後42年6カ月続く空軍生活の幕開けとなった。
 
19歳のとき結婚した。披露宴当日、料理がまだ半分も出ないうちに空襲警報が鳴り響いた。日本軍が投下した爆弾が、披露宴会場のそばに落下したのだ。集まった客たちはほうぼうに逃げ去り、披露宴は早々にお開きとなった。
 
結婚後は雲南省昆明にある「航空委員会第十飛機修理工廠」に異動となった。そこでは、陳納徳将軍が率いる「飛虎隊」が使用していたP-40戦闘機の整備を請け負った。それから終戦を迎える1945年まで、劉さんはこの工廠で戦闘機の整備を担当した。その後、インドのパンジャーブ地方に単独で渡り、そこにあった空軍官校初期班で練習機P-17の整備を担当した。
 
冷戦期間中、偵察衛星の撮影技術が未熟だったことから、すでに台湾に撤退していた中華民国政府は米国と協力し、米国の支援を得て第8航空大隊第35中隊を秘密裏に結成した。通称「黒猫中隊」と呼ばれる航空偵察部隊で、桃園市大園を拠点に活動した。
 
1961年から1974年までの期間中、「黒猫中隊」に所属する合計28名の空軍パイロットが、U-2偵察機を操縦して中国大陸の領空に侵入した。任務の遂行は約220回に及んだ。そのうち無事生還したパイロットは17名、無事に台湾に戻ることが出来たU-2偵察機は16機だった。劉さんは、それまでの活躍が評価され、「黒猫中隊」U-2高空偵察機の整備を行う「地面装備士官長」を担当していた。
 
「黒猫中隊」は1974年に解散した。米国はその後、U-3政府専用機を中華民国空軍に寄贈した。これに伴い、劉さんも松山基地(台湾北部・台北市)指揮部に異動となり、U-3政府専用機の整備を任された。なお、このU-3政府専用機は現在、中華民国空軍軍官学校(台湾南部・高雄市岡山区)に展示されている。
 
劉さんの孫娘が後に明らかにしたところによると、U-3政府専用機は名目上、米国が中華民国に寄贈したことになっているが、実際は米国が劉さんの整備技術を称えて贈与したのだという。彼女が中華民国空軍軍官学校を訪れたとき、校長が展示されているU-3政府専用機を指さして、「ご覧なさい。あれがあなたのお爺さんの飛行機ですよ」と教えてくれたのだという。
 
1983年、退役年齢を迎えた劉さんは、軍に退役を申請して認められた。42年と6カ月にわたる空軍生活において、RF-38、RF-51、RF-84、RT-33、RF-86、RF-100などさまざまな偵察機の整備を行ってきた。そして軍人生活の最後は、政府専用機を担当する空軍の専機中隊で過ごしながら、その整備技術をあますことなく後世に伝えることに尽くしたのだった。
 

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