2024/05/05

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政治

二次大戦での元イギリス兵が死去、国防部が中華民国の国旗を贈って願いを叶える

2018/09/17
第二次世界大戦中、ミャンマーでの戦いで中華民国軍に助けられ、自分が死んだら中華民国の国旗を棺にかけてほしいと願っていたイギリス人元兵士の妻に国旗が贈られた。写真は今年7月28日、国防部の関係者がイングランドのリーズにFitzpatrickさん(右)を見舞い、一足早く99歳の誕生日を祝った時のもの。(国防部提供、中央社)
生前、自分が死んだら中華民国の国旗を棺にかけてほしいと願っていたイギリス人元兵士の妻に国旗が贈られた。イギリス人の元兵士、Gerald Fitzpatrickさんは高齢ながら元気に過ごしていたが、今年6月に自宅で転倒して入院。老人ホームでリハビリに励んでいたところ8月に肺への感染で再入院し、8月27日に99歳で亡くなった。
 
Fitzpatrickさんが自らの半生を記した文章によれば、Fitzpatrickさんは1919年8月10日にイングランドのリーズ(Leeds)で生まれた。父親は歩兵として第一次世界大戦に参加。Fitzpatrickさんは油圧技師について5年間学んだ後、志願してイギリスの陸軍工兵隊(Royal Engineers)に加わった。当時、Fitzpatrickさんはまだ12歳と2カ月だったという。1942年、イギリス軍は植民地だったミャンマーで日本軍に包囲された。当時、中華民国軍の孫立人師団長率いる遠征軍の新38師団113連隊は兵力で劣りながら、数千の兵力を擁した日本軍を撃退し(「仁安羌(イェナンジャウン)の戦役」)、イギリスの兵隊たちを救い出した。Fitzpatrickさんはそのうちの1人だった。
 
Fitzpatrickさんはその恩に報いるため、第二次世界大戦の歴史を綴る中で中国大陸・雲南省とミャンマーでの戦いを紹介。Fitzpatrickさんの著作である『中国遠征軍がミャンマーでイギリス軍を救った-イェナンジャウンの戦役(Chinese save Brits-in Burma:Battle of Yenangyaung)』ではさらに、中華民国国防部(日本の防衛省に相当)がFitzpatrickさんに贈った、中華民国の国章と国防部の部章が彫られた建国100年記念プレートを表紙に採用した。
 
2013年、94歳だったFitzpatrickさんは招きに応じて台湾を訪問、救い出された当時の情景を説明した。Fitzpatrickさんによれば、1942年3月5日にミャンマーでイギリス軍に参加したが、その第1師団はすでに戦闘を3週間続けており全滅寸前だった。「イェナンジャウンの戦役」までの約11日間で、部隊は500人あまりからわずか120人まで減っていた。イェナンジャウンはミャンマー中部に位置する油田。指揮官があまり状況を把握していなかったことから、Fitzpatrickさんは油田では絶対に死ねないと思い、残った兵士たちを率いて北に向かった。その結果、日本軍が設けていた障害を突破し、人員の損失無く目的地に到達。しかし無人島に上陸したように右も左もわからず、いつ日本軍の襲撃を受け、捕虜にされるかわからなかった。
 
その時、中華民国軍が助けにやって来たという知らせが入った。Fitzpatrickさんは「ほとんど信じられなかった」が、500人から600人程度の中華民国軍兵士が砂地を越え、平地を抜けて南方に向かい、日本軍と戦うのをはっきり目にした。Fitzpatrickさんは、「たしかにこの目で中華民国軍の兵士たちが現れるのを見た。隊列の方式や戦術の位置も。自分の目でしっかりと確認したからこそ歴史を描ける。この歴史は本当に起きたことなのだ」と話した。
 
国防部はFitzpatrickさんに敬意を表し、定期的に人員を派遣して見舞った。駐イギリス台北代表処は双十国慶節の祝賀レセプションに毎年、Fitzpatrickさんを貴賓として招待。Fitzpatrickさんは昨年のレセプションにも夫人と共に出席し、中華民国の誕生日を祝うケーキにナイフを入れていた。
 
Fitzpatrickさんを実際に救ったのは、当時の劉放吾連隊長率いる陸軍113連隊。それに感謝するためFitzpatrickさんは晩年、当時の中国大陸・雲南省及びミャンマーにおける戦いの真相を熱心に書き残した他、イギリスの外相に手紙を書き、1942年の「イェナンジャウンの戦役」における中華民国軍の勇ましい作戦行動を認めるよう働きかけていた。
 
 

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