2024/05/06

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「漫才の巨匠」呉兆南氏が死去、文化部は「褒揚令」申請へ

2018/10/15
中華民国(台湾)で「漫才の巨匠」と呼ばれた呉兆南氏(写真)が米国西部時間の10月14日午前1時30分に自宅で死去した。享年92歳。文化部は「褒揚令」を蔡英文総統に申請する。(呉兆南相聲劇芸社提供、中央社)
中華民国(台湾)で「相聲大師(漫才の巨匠)」と呼ばれた呉兆南氏が米国西部(ロサンゼルス)時間の10月14日午前1時30分に自宅で死去した。享年92歳。呉兆南相聲劇芸社が台湾時間14日夜にフェイスブックで明らかにした。「国宝」級とされた呉兆南氏は数年前に受けたインタビューの中で、死後は墓石に「この者はかつて漫才をやっていたが、今は出来なくなった」と記してほしいと語っていた。
 
呉兆南氏は1924年、中国大陸の北京生まれ。兆南は芸名で本名は照南といい、漫才の大家である侯宝林に師事した。1949年、国民政府と共に台湾に渡って来てからは漫才や京劇で活躍、中華文化の優れた伝承者を表彰する全球中華文化芸術薪伝奨(賞)、文化部(日本の文科省に類似)が優れた出版物やその関係者を表彰する金鼎奨、行政院(内閣)が伝統的な文化の保護と発揚への貢献者を表彰する行政院文化奨、国立伝統芸術中心が伝統及び芸術音楽を表彰する伝統及び芸術金曲奨(ゴールデン・メロディ・アワード)特別貢献奨、米国リンカーン舞台芸術センターの生涯功労賞など数多くの賞を受けた。
 
呉兆南氏は『相聲集錦』などで、300あまりの漫才を記録した音声や映像作品を残している。台湾海峡両岸の漫才の歴史上、これほど多くの音声・映像作品をリリースしたのは呉氏のみ。呉氏の名言とされる、「かつて漫才をすることは生きるためだったが、今では漫才をするために生きている」という言葉は、呉氏にとっての漫才が、生存のための道具から生きがいへと転じていったことを物語っている。
 
呉兆南氏は1952年、手品と話芸の「評書」(講談に類似)で生計を立て、台湾北部の台北市内で暮らしていたが、京劇の著名な俳優、馬継良氏が台北市で開いた「蛍橋楽園」に招かれて「単口相聲」(1人で行う漫才。漫談)を担当し、その後は漫才一本にしぼるようになった。漫才では魏龍豪氏との息の合ったコンビが絶妙で大人気となり、この名コンビは40年あまり続くことになった。
 
呉兆南氏は1973年に一家で米国に移り住んだが、その漫才は米国でも「アジアで最も優れた芸能人金賞」、並びに「生涯芸術功労賞」などに輝いた。1999年に相方の魏龍豪氏が死去すると、呉兆南氏は「自分は一人ぼっちの小舟、そして弓を失った矢のようだ」と語り、魏龍豪氏に代わる相方がありえないことを嘆いた。しかし、呉兆南氏は1999年から、江南、侯冠群、郎祖筠、劉増鍇、劉爾金、樊光耀などを弟子に取って指導、呉兆南相聲劇芸社も創設し、引き続き国内外で「相聲芸術」の普及に努めた。
 
2015年、90歳を前にした呉兆南氏は転倒して鎖骨と肋骨2本を骨折しながら痛みをこらえて台湾に戻り、弟子や孫弟子たちと舞台で漫才を披露した。舞台ではコルセットの装着を拒否、漫才の締めくくりでは腰を90度曲げてのお辞儀をし、痛みに耐えながら完璧な漫才をやってのけた。弟子で女優の郎祖筠さんは当時、「師匠は普段からユーモラスな方法で、漫才師にあるべきプロ精神を、身を以って示してくれている」と話している。
 
呉氏死去の知らせを受けた文化部の鄭麗君部長(大臣)は、呉兆南氏は台湾における話芸の第一人者で、漫才の永遠の国宝だと述べ、葬儀などの手配では遺族に協力する他、蔡英文総統に「褒揚令」(国に多大な貢献をした国民を政府が称えることを示す公文書)を申請する考えを示した。現在の文化部の前身である行政院文化建設委員会は2011年、重要伝統芸術保存者の「相聲」部門で、呉兆南氏を「人間国宝」に選んでいる。
 
 

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