2024/05/05

Taiwan Today

文化・社会

台北市内にある古き良きロシア、「明星咖啡館」

2019/10/05
台北市武昌街一段7号の2階にあるロシアカフェ「明星咖啡館(アストリアカフェ)」は今年で創業70年を迎える。1989年に一時閉店したが、2004年に再オープンした。かつて多くの作家がここで執筆活動を行った。台湾文学のランドマークとも言える場所だ。(中央社)
台北市武昌街一段7号にあるロシアカフェ「明星咖啡館(アストリアカフェ)」は今年で創業70年を迎える。ここは台湾の近現代文学とも大きな関係のあるカフェだ
 
台北市に「明星咖啡館」がオープンしたのは1949年10月30日のこと。名門男子校である建国高級中学(=高校)を卒業したばかりの簡錦錐さんが、自分よりも3周りも年の離れたロシア人6人と共同で立ち上げた。当初はパンを販売するだけだったが、翌年からコーヒーも取り扱うようになった。
 
6人のロシア人株主の一人、Burin Petter Noveehorさんは1920年に中国・上海でオープンした同名カフェのオーナーの一人だった。それ以外の5人は、上海にあったこの店の常連客だ。このため、台北市にオープンした「明星咖啡館」で当初使用していたのは、上海から運んできた大きな冷蔵庫だった。
 
霞飛路7号。―これは上海の「明星咖啡館」の住所だ。「明星咖啡館」は「7号」という住所に特別な縁があった。ロシア人たちが台北市に「明星咖啡館」をオープンさせるにあたり、選んだ場所も武昌街一段「7号」だった。その正面には台湾省城隍廟があった。台湾の人々の考えでは、廟宇などの宗教施設は風水の良い場所に建てられているため、「良い気」を全て吸い取ってしまう。このため、その正面の土地は運気が下がるとして避ける傾向がある。しかし、ロシア人たちは住所に入っている「7」という数字が、西洋では幸運の数字であることから、この場所を見つけて喜んだという。
 
簡錦錐さんと「明星咖啡館」も奇妙な縁で結ばれていた。簡錦錐さんはその著書『明星咖啡館』でこう記している。1939年、簡錦錐さんが8歳のときのこと。上海に引っ越し、当時上海で働いていた一番上の兄と一時同居することになった。そのときに、当時ロシア人が経営していた「明星咖啡館」の前を通ることがあった。扉の向こうから漂うコーヒーの香りをまだ覚えているという。
 
当時上海にあった「明星咖啡館」に出入りしていたロシア人の多くは、1917年10月に発生した「十月革命」後にロシアを離れ、中国に渡ってきた人々だった。彼らの多くは帝政ロシア時代の貴族、軍人、知識人、あるいは反共主義者、亡命者などだった。その一部は第二次世界大戦後に誕生したソビエト社会主義共和国連邦へ帰ることを望まず、国民政府と共に台湾へ移ってきた。
 
簡錦錐さんのことを実の子どものようにかわいがってくれた「明星咖啡館」の株主の一人、George Elsnerさんもそうした一人だった。当時台北では西洋式のパンを手に入れるのが困難なことから、George Elsnerさんはパン屋を開こうと考えた。しかし、「反共抗俄(=共産主義に反対し、ソ連に対抗する)」のスローガンが叫ばれていた当時の台湾では、ロシア人と距離を取る台湾人がほとんどだった。簡錦錐さんは家族を心配させないため、当初は「明星咖啡館」の株主に加わらなかった。しかしその後、店の改装資金を出し、数年後には店を買い取って正式にオーナーとなった。
 
台北にオープンした「明星咖啡館」には、蒋経国元総統の妻でロシア出身の蒋方良(ロシア名はファイナ・イパーチエヴナ・ヴァフレヴァ)女史が友人と訪れることもあった。また、黄春明さん、季季さん、林懐民さん、白先勇さんなどの作家や芸術家がここを訪れて執筆活動を行うこともあった。彼らにとって最も印象に残っているのは、一杯のコーヒーだけでどれだけ長居しても、店を追い出されなかったことだったという。
 
中国政府が今年8月に中国人の台湾への個人旅行を禁止するまで、「明星咖啡館」は文学好きの若い中国人観光客が好んで訪れる場所だった。なぜならここはコーヒーの香りだけでなく、人情味も感じることができるからだ。上海の若者たちは、「台湾の作家のことを知る人なら、ここでコーヒーを飲みたいと思う。そして、台湾の詩人兼作家である周夢蝶さんが、この店の外に本を並べて売っていたときの光景を想像するのだ」と話す。
 

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